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第414話

「はぁ~っ。平和」 「うん。平和ね」 ぐたり、だらりと、ナースステーションで看護師たちが、机に凭れかかってだらけていた。 「あぁ、もう本当に、このまま山岡、向こうに行っちゃうのかな…」 「うん…。順調に引継ぎもこなしちゃってさ、留学準備も、着々と進めているらしいじゃん」 はぁっ、と深い溜息が漏れる看護師たちの口から、落胆と寂寥に満ちた声が溢れていた。 「本当、やり切れないなぁ、こんな日常」 「うん…。段々、見慣れてきちゃっているのが、もう、ね…」 「ほんと…。まるで前から2人はこんな関係だったみたいに…。あの頃の…以前の、ラブラブでお熱い2人が、嘘だったみたいに…っ、今があまりに普通で…。いやぁっ」 「違和感が薄れてく…。2人が想い合っていたこと、夢?幻?え?私の妄想じゃないよね?って…っ、嫌だ」 うるりと瞳を潤ませる看護師たちが、馴染んでいく2人の同僚としての関係、姿に、嘆きの悲鳴を零す。 「山岡は山岡で、何故か松島先生との距離が、どんどん接近していくし…」 「聞いた!この前の大事故のオペでしょ?なんか、協力し合っちゃって、ヤバかったらしいじゃん」 「そうそう。それからも、昼はしょっちゅう2人で食堂にいる姿を見るしさ。そりゃ、自分がオペした患者が、脳外に入院しているから、っていうのは分かるんだけど…しょっちゅう脳外病棟にも通ってるらしいね…」 「日下部先生が、またそれを黙認しているっていうのが…。あんなに嫉妬深かった人が。本当に、山岡のこと、もう何とも想っていないのかな」 松島にとられるような形になっているのに、なんのアクションもない、と嘆く看護師たちの前に、ふと、ふらりと山岡がやって来た。 「っ…」 途端にびくりと口を噤み、そろりと窺うように山岡に視線を向ける。 「ぉ疲れ様です…」 もそりと俯き、相変わらず前髪で顔を隠したまま、スタスタとナースステーション内に入ってきた山岡は、看護師たちの様子に気づかずに、ナースステーション内を横切り、ストンと中央のデスクに座った。 「……」 「っ…」 ぱさりと山岡がデスクの上に持ち出したのは、大きめの未使用の付箋紙で。 「ん~」なんて小さな声と同時に探し当てたファイルを開き、それに何やらサラサラと付箋に文字を書き込み、貼り付けていく。 『ねぇ、ちょっとあれ』 『うん。引継ぎ用のメモだね…』 『っ、いらない…っ。そんなの、必要ないよ。山岡ぁ』 やめてよ、見たくない、と、ナースステーションの隅でコソコソと、自分が去っていくための準備を着実に進めていく山岡の姿を見つめながら、看護師たちが悲しみの声を漏らす。 「っ~~!山岡先生!」 不意に、とうとう我慢しきれなくなった看護師の1人が、思い切って山岡に声を掛けたところで、同じくナースステーションの外から、山岡を呼ぶ声が掛けられた。 「山岡くん」 「ぇ?ぁ、えっと…」 同時に2人の人間から名を呼ばれ、山岡が困惑したように、ナースステーション内の看護師と、外から山岡に呼び掛け、近づいてきた人物に目を向ける。 「あ、光村先生…」 「ふむ。お先にどうぞ?」 三竦みのようになってしまった状況に気づいた光村が、にこりと看護師に先を譲るのに、看護師がブンブンと手と首を振った。 「いえっ、私の方は、大した用事ではないのでっ。いいんです」 「そうかね?」 「はい。あの、えっと、失礼します!」 ペコリと頭を下げて、ワタワタと仕事に戻る素振りの看護師に、光村が首を傾げながらも、では…と山岡の真横まで向かう。 「ぁ、えっと、お疲れ様です…」 「うん、お疲れ様。山岡くん、昨日もらったこの書類だけれどね…」 ペラリと持参した1枚の書類を山岡に差し出した光村に、それを受け取りながら、山岡がコテリと首を傾げた。 「はぃ…」 「形ばかりとはいえ、推薦状を書いてくれると言った向こうのドクターが、この分野のプログラムだけでなくて、こっちの…この研究チームの方にも、参加してみないかと言ってきてくれているんだが…」 「ぇ…」 「語学研修はいらないんだろう?その分、時間が取れるだろうし、と言っていたが」 「っ…オレは、入れていただけるのなら、やってみたいと、思います。けど…」 「そうか。うん、きみならそう言うとは思ったが」 「でもこんな先駆的な研究…」 「興味深いだろう?」 「はぃ。はぃ。もしも成果が得られれば…」 パッと顔を上げ、目を輝かせる山岡に、光村は苦笑しながらうんうんと頷いた。 「山岡汰一先生の墓前にも、よい手向けとなるね」 「っ…ん。オレ、挑戦させていただいて、いいですか?」 「うむ。分かった。ではこの書類のこちらは、そのように直しておこう」 「ありがとうございます」 「それからもう1つ、この資格取得の年月日なのだがね…」 「あぁ、はぃ、はぃ…」 ナースステーションの中央で、顔を突き合わせて渡航に関する話を交わす山岡と光村に、看護師たちの悲痛な視線が、ますます強まった。 「よし。ではそのように。仕事中悪かったね」 「ぃぇ…。わざわざありがとうございます。他にもまたもし不備があれば」 「あぁ、都度尋ねさせてもらうよ。あぁ、これはきみの控えね。持っていなさい」 どうぞ、と渡される書類を受け取り、山岡がふわりと微笑む。 「じゃぁ」 「はぃ、お疲れ様です」 ふらりと手を振りナースステーションを出て行く光村に、ペコリと頭を下げながら、山岡がその後ろ姿を見送った。 「ふぅ…」 ふわりと不気味に1人、書類を見下ろして笑みを溢す山岡を、隅の方で看護師たちが眉を寄せて見つめている。 「段々、現実になるなぁ…」 楽しみだな、と書類を目の高さまで持ち上げ、ゆったりと背もたれに背中を預けてそれを眺めた山岡が、不意にピキンと指先を引き攣らせた。 「ぇ…?」 フルフルと、小刻みに震える指先につられて、その手に持たれた書類がペラペラと揺れる。 「っ…」 (また、だ) ツキン、ツキン、と、喉の奥に魚の小骨が引っ掛かったような、小さな突っ掛かりが胸を刺す。 「っ…」 (な、に?これ…。何の意味を持つ…?) 病気では、ない。 心臓外科は専門外だけれど、この胸の疼きが、身体の不調から来るものではないことくらいは察せられる。 「どうして、痛いの…?」 ジッと見つめる海外関係の書類には、期待と希望しか映らないのに。 その目の奥には、本人も自覚のない切ない色が、見え隠れしていた。

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