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第416話
「ふっぁ~、風が気持ちいい~」
ふらり、へにゃり、と、右へ左へ身体を傾かせながら、のろのろと歩く山岡に苦笑しながら、松島がそっとその身体を支えた。
「ちょっと、危ないですよ、山岡先生」
車道に出ないでください?と微笑む松島に、山岡がふにゃぁっと笑いながら、「だぁ~いじょうぶれす」と怪しい呂律でふらふら歩き出す。
「おっとっとと。こら、山岡先生」
酔ってませ~ん、と、酔っ払いの常套句を叫びながら、松島の手を離れてふらふらとあちらへこちらへ歩き出す山岡を、松島が流石に苦い顔をして追いかけていた。
「まったく、ほら、僕にちゃんとつかまってください?」
これは…飲ませ過ぎたか?と、さすがに反省しつつ、松島が山岡の腕を捕まえる。
あれから数杯、またも飲めや食えやで完全に出来上がってしまった山岡と店を出て、いざ…と街を歩き始めた松島は、下調べしておいたホテル方面へ向かって、さりげなく山岡を誘導した。
「ん~?こうですか~?」
ぎゅぅっ、と松島の腕にしがみつく山岡に、松島が少し痛いな、と思いながらも腕を明け渡す。
「あ~、なんか、気持ちいい~」
ふにゃぁ、と笑み崩れる山岡の無防備な笑顔に、ごくり、と松島が唾を飲み込んだ瞬間。
不意に、向かいから見たことのある人物の姿が目に飛び込んできた。
「っ…」
「んぁ?あれぇ?くさかべせんせぇ?」
思わず息を詰めてしまった松島に対して、山岡はにっこりと微笑みながら、するりと松島の腕を離し、日下部の方を指差している。
「鬼元指導医様~」
ケラケラと笑いながら、明らかに原に吹き込まれたのだろう。ろくでもない呼称を披露しながら、ふらふらと足を踏み出した山岡に、ハッと日下部が駆け寄った。
「山岡先生っ」
何しているの、とその腕を掴んだ日下部に、山岡の身体がギクリと強張った。
「っ…おや、日下部先生。仕事帰りですか?」
こちらは一瞬で気を取り直した松島が、にっこりと優雅な笑みを顔面に張り付けて、さりげなくそんな2人に近づいた。
「っ、そうですけど。2人は…なにを?」
「見ての通りです。仕事帰りに飲みに行きまして。そろそろ帰ろうかと店を出て歩き出したところです」
「飲みに…?帰るって…」
チラリとすっかり出来上がってしまっている山岡に視線を向けた日下部が、不信感も露わに松島を見た。
「あ~、まぁ、少々飲ませ過ぎてしまいましたけれど」
「っ…少々?」
これで?と松島に鋭い視線を向ける日下部は、松島の行動を警戒している。
「えぇ。あぁ、でもご安心ください。責任を持って、きちんとお送りしますから」
「っ、送るって…」
「介抱も、慣れているので大丈夫ですよ」
なにより医師ですから、と鮮やかに微笑む松島に、日下部は山岡の腕を掴む手にぎゅぅっと力を込めてしまった。
「お、れが、連れて帰ります…」
「はい?どうして日下部先生が」
きゅぅ、と眉を寄せ、思わず申し出てしまった日下部に、松島の目が薄く細められる。
「っ…あ、なたに、は…」
下心がある、と視線を鋭くする日下部に、松島はゆるりと優雅に微笑んだ。
「それは…まぁ、随分と、失礼ですねぇ」
「っ、山岡先生には、免疫がないっ。こういうことに慣れていなくて…あなたにされるがまま…それを、見過ごすのは…」
「ふふ、たとえ、そうだとして。日下部先生が、僕と山岡先生の間に入ってくる理由や権利は、ありませんよね?」
野暮で、お邪魔虫、と艶やかに微笑む松島に、日下部の頬がカッと上気した。
「っ、俺は!」
「ふふ、風の噂によりますと、日下部先生と山岡先生は、すでに終わられたとか」
「っ、それは…。ですが、同科の同僚として…っ」
「でしたら、それこそ無用の心配です。ただの同僚が、仕事仲間でしかない人間の色恋沙汰に口を挟むのは、無粋というものですよ」
にっこりと、優雅に日下部をシャットアウトしに掛かる松島に、日下部がギリギリと奥歯を軋ませた。
「それでも…」
このまま山岡を松島に委ねてはいけないと、日下部は察知している。
「ですから、山岡先生はもうあなたのものでは」
ない、と松島が断言しようとしたところで、山岡の、震える小さな声が上がった。
「ぃ、たぃ…」
「っ?山岡先生っ?」
ハッとした日下部が、いつの間にか、痣になりそうなほど、きつく掴んでしまっていた手の力を緩める。
「ぃゃです…。いや。離して下さい…」
それでも、腕を掴んだ手を離そうとはしない日下部に、山岡は震える小声を漏らした。
「山岡先生…」
くしゃり、と日下部の表情が歪む。
「ほら、日下部先生」
嫌がっていますよ、と告げる松島に、山岡はふらふらと首を振って、足を縺れさせた。
「山岡先生?」
「山岡先生…」
「嫌だ…。いやです…。痛いのは、腕だけじゃない…」
「山岡?」
「あなたの…日下部先生の、その目が、痛いです…。そんな目で、見ないで下さい…。どうしてか分からない…分からないんですけど、苦しい…。ここが、痛くて、息がしづらくなる。だから嫌だ、嫌なんです」
離して、と手を振り解こうと揺らす山岡が、反対の手でぎゅぅっと自分の胸元を掴む。
「山岡っ…」
「嫌だ。嫌です。きらい…。あなたが嫌いです」
オレに触らないで、と、ついに勢いをつけて手を振り払った山岡が、くるりと踵を返し、ダッと走り出した。
「山岡先生っ…」
けれども、すっかり酔っ払っている山岡の足元は、怪しく覚束ない。
真っ直ぐに走ることはおろか、そもそも駆け出すことが無謀だった。
「山岡っ…!」
慌てて手を伸ばした日下部の目の前で、山岡がよろけてたたらを踏む。
「っ、山岡先生!」
「山岡っ!」
「ぁ……」
ふらり、と身体が傾いた先がこれまた運悪く、夜間工事のため、境界用と置かれたカラーコーンと黒と黄色のコーンバーをなぎ倒し、トトトッと工事区間内によろめいていく。
「っ…」
まずい、と思ったのは、一瞬だった。
トンッ、と工事エリア内、ブルーシートが敷かれた上に積まれた、足場用らしき単管パイプや踏板の山にぶつかった。
「山岡っ…!」
がたりと僅かにずれた資材が、さらに運悪く、近くの大型の脚立に引っ掛かる。
ぐらり、と脚立が傾いでいくのを、止める間もなかった。
その脚立はガシャーンと大きな音を立てて、組み立てかけの足場に向かって倒れていった。
「なんだっ?」
「おいっ、そこは侵入禁止っ」
「危ないっ、逃げろっ…」
近くで休憩中だった、足場組み立ての作業員たちが、事態に気づいて慌てて叫ぶ。
けれどもその声が届いたところですでに時は遅く、組み立て途中だった足場は、もろくも脚立がぶつかった衝撃で崩れていく。
「っ、っ…」
逃げなければ、という頭は、かろうじて働いている。
けれどもすっかり酔いが回ってしまっている身体は、水中を動くよりもまだ遅く、重い。
「山岡っ…!泰佳っ」
呆然と、自分に倒れ掛かって来る足場を見つめるしかできない山岡と、駄目だ…とその瞬間を恐れて目をギュッと閉じてしまった松島や作業員たちの前で、日下部だけが、山岡を目指して地を蹴った。
「っ、っ…!」
もう駄目だ、と覚悟を決めて目を閉じた山岡の身体に、ドサッとした衝撃が与えられた。
「っ…?」
「くっ、間に、合…」
ドンガラガッシャーーッ!
ものすごい音を立てて、単管パイプやら、踏板やらがばらけて倒れて降り注ぐ。
「っ、っ?」
気づけばドスンと地面に尻餅をつき、ずりっと後退った山岡の足先、ほんの数センチのところに、カラーン、カラーンと鉄パイプが何本か転がり落ちていた。
「ぇ…?」
そろりと目を開けた山岡は、想像していた衝撃や痛みが来なかったことに、不思議そうに首を傾げる。
けれどもその視線の先、一瞬前まで自分がいたはずの、足場が降り注いできたその場所に、呻く誰かの身体を見つけて、ひゅんっと息を飲み込んだ。
「っ、ぁ、ぇ…?」
右側半分が、完全に足場の下敷きになってしまっている、スーツ姿の男性の身体がある。
ぴくりと震える足と、難を逃れた左手が小さく動き、生命活動を継続していることを知らせてはくれるけれど、ごそりと身じろいだ黒髪の間からは、だらりと真っ赤な血が滴っている。
「っ、日下部先生っ!」
「ぇ…ぁ」
「おぉいっ、人が下敷きになったぞ~っ、早くどかせっ、救助しろっ」
「救急車っ!誰かが足場の下敷きにっ…」
途端にざわりと騒めき、駆け寄り叫ぶ作業員や松島の声を聞いて、山岡は、ふらりとその場に立ち上がり、ふらり、ふらりとその側に歩み寄った。
「く、さかべ、せんせい…?」
嘘でしょう?と伸ばされる手は、「邪魔だ、どけっ」と怒鳴る作業員の身体に遮られ、ばしりと落とされる。
「早くっ、この方を、下から出して下さいっ!医師です!僕が診ますっ」
「そっち持てっ。せーので上げるぞ」
「それをこっちにっ」
「救急車、要請しましたっ」
バタバタと、日下部の救出に駆け回る作業員と松島の声が入り乱れ、山岡はそれを呆然と耳に入れながら、ただ唖然とその光景を見つめていた。
「っ~~、山岡先生っ。あなたもっ、手伝って下さい。医師でしょうっ?」
たとえどれほど酔っていても、と叫ぶ松島に、山岡はハッとしたように視線を上げ、ふらりと日下部の間近に駆け寄った。
「いち、にの、さんっ、今です、引き出して」
「山岡先生、頭、揺らさないように、肩からゆっくり」
「はぃっ」
作業員の人たちが上げてくれた資材の下から、ずるりと日下部の身体が引っ張り出される。
「日下部先生!日下部先生っ、聞こえますか?聞こえたら返事をしてください!」
トントンと肩を叩き、耳元に顔を寄せ、松島が大声で話し掛ける。
「う、つぅ…山岡、は、無事ですか…?山岡…」
ふらり、と目を持ち上げた日下部が、必死で首を巡らせようとする。
「っ、っ、日下部先生っ、頭、動かさないでください」
「山岡は…。山岡は、無事…?」
慌てて身動きを押し留める松島に構わずに、日下部はただひたすらに山岡の無事な姿だけを探し求める。
「オ、レは、無事です…。あなたが庇ってくれたから…。ありがとうございます。ありがとう…ごさい…っ」
「よ、か、った…あぁ」
大丈夫です、と日下部の視界に入るように、無事な姿を見せた山岡に、日下部の顔がふわりと綻んだ。
「っ、日下部先生っ…」
「目、が、霞む…?なんか、視界が、真っ赤…なんだけど…」
夕焼けには遅いね、と笑う日下部の片目は、頭から流れた血でドロドロになっていた。
「っ、頭を切っているようで、出血しているんです。ちょっと診ますよっ?」
「頭…」
ははっ、と笑った日下部が、そのままゴトリと顔を俯け、地面にゴリッと頬を擦りつけながら目を閉じていく。
「日下部先生っ?日下部先生っ…?」
「っぁ…」
「山岡先生。僕は頭部を診ますから、山岡先生は他の個所を…」
お願いします、と叫ぶ松島の声に、山岡が呆然と目を見開いていく。
「っ、ぁ、あ…」
山岡の、震える声が微かに空気を揺らしたところで、ピーポーピーポーと駆け付ける、救急車のサイレン音が間近に聞こえた。
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