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第418話

「原くん!」 どういうつもりだ、と怒鳴る松島に、原はポロポロと涙を零しながら、小さくしゃくりあげる。 「悪い冗談はやめてくれ。あの程度の容態で、そんな、何かが起こるわけ…」 ぎゅぅ、と原の肩を掴む手に力を込めた松島が、床に座り込んでしまった山岡を、気づかわしそうに見下ろしながら、原に詰め寄った。 「原くんっ」 「う、あ、あ…」 ぼろり、と涙を零して、ぼんやりとそんな松島を見つめる原の口が、ふるりと小さく震えて、掠れた音を紡ぎ出す。 「命に別状は…もちろん、ありません…」 「っ、じゃぁ何故っ!」 「手…」 「え?」 「日下部先生の、右手が…」 「っ…」 ひゅっ、と息を飲んで固まった松島と、床にくずおれながらもその言葉を耳に拾った山岡が、同時に大きく目を見開いた。 「まさか…」 「っ、その、まさかです、多分…」 「は、ら、せんせい…」 「はい…っ、日下部先生の右手っ、足場の、下敷きになって…っ、神経損傷…っ、麻痺、が…」 あぁ、とか、うぅ、とか唸りながら、原もまた、ずるずるとその場に座り込んでいく。 「外科医の、手です…」 「あ、あぁ、あぁぁぁっ」 「外科医の、手なんです…っ」 それは、修復手術をして、場合によっては神経移植術を、神経移行術を行って、リハビリをして…普通の日常生活が送れるように回復させればいい、というわけではないという、原の叫び。 外科医の。外科手術を。以前と遜色なく、何1つ変わらず、こなせるだけの回復を目指す、求める。 それがいかに難しい話なのか。どれほどの形成外科医の腕が必要になるのか。 その意味を正確に理解している原の涙だと悟って、山岡の目が、真っ黒に曇った。 「あぁぁぁぁっ、オレのせいだっ。オレのせいだっ、オレのせいだっ…」 「山岡先生っ…」 あぁっと叫び声を上げ、頭を抱えて床に蹲る山岡に、松島がハッと原の肩から手を離し、膝をつく。 「あぁっ、どうしてっ。どうしてっ?オレなんかのためにっ…日下部先生のっ、エースの手がっ…」 「山岡先生っ、落ち着いてくださいっ…」 「オレがっ…日下部先生のっ、右手を…っ」 外科医生命を、その腕を。 「奪っ…た」 あぁぁぁっ、と頭を抱えて喚いた山岡が、突然パッと顔を上げ、救急室の方へ駆け出した。 「山岡先生っ、いけませんっ」 松島の、慌てたような制止の声を振り切って、山岡は救急室内に飛び込んだ。 「え?山岡先生…?」 途端にふわりと香る山岡のアルコールの匂いに、近くにいた医師やスタッフがぎょっとして、嫌そうな顔をする。 「ちょっ…山岡先生?」 駄目ですよ、と山岡をやんわりと追い出そうとした救急スタッフの間を、山岡はするりとすり抜けた。 「ぁ、ぁ、日下部先生…。日下部先生」 ふらり、ふらりと日下部が寝かされたベッドの方に向かって歩き出した山岡に、ゆらりと日下部の目が向いた。 「んっ…?山岡先生…?」 どうして、と困ったように微笑む日下部には、しっかりと意識がある。 頭の怪我にべたりとガーゼが貼られ、ネット包帯をされた痛々しい姿の日下部が、ゆるりと首を巡らせた。 「っ、日下部先生…」 けれども山岡の目に止まったのは、そんな仰々しい処置済みの頭の怪我ではない。 処置ベッドの上にだらりと投げ出された、血の跡が固まる、日下部の力ない右手だった。 「ぁ、ぁっ…」 オレのせいで…オレなんかの為に、とふらつく山岡が、日下部の動くことがない右手にそろりと手を伸ばす。 「山岡先生?」 「ぁ、ぁ、あ…。オレが、疫病神だから…。オレのせいで…。オレなんかを、庇ったから…っ」 ごめんなさい。ごめんなさい。と涙を流して日下部の寝かされたベッドに縋りつく山岡に、日下部のふわりとした笑顔が向いた。 「大丈夫。大丈夫だよ、山岡先生」 「っ、大丈夫なわけっ…。だってオレのせいで!オレなんかのために、日下部先生のっ、エースの手がっ…」 どんなに謝っても謝り足りない。どう償っても償い切れない。と泣き叫ぶ山岡に、日下部はますます深く微笑んだ。 「違うよ、違う。おまえなんかじゃないんだ。おまえなんかじゃない」 「何言って…。日下部先生?」 「おまえだから。山岡泰佳だから」 『おまえはおまえなんかじゃない。……が……た、唯一無二の存在なんだって』 「っ?!く、さかべ、先生…?」 にこりと微笑み、くたりと力を失くした右手をゆるりと見つめながら、日下部が優雅に瞬きを1つした。 「山岡泰佳だから」 『……が……した、……のヒーロー。天才外科医、山岡泰佳』 「っ?」 「おまえを守れたんなら、それでいい。この腕1本など、何も惜しくはない」 「っ、どう、して…?」 「天才外科医、山岡泰佳。その身の代わりになれたのなら、それでいいんだ」 ふわりと微笑み、その目を動かない右手から、ゆるりと山岡に巡らせた日下部が、深く大きく息を吸い込んで、時間をかけてそれをゆっくり吐き出した。 「おまえが無事で、良かった」 『……てる。……てるよ、泰佳』 鮮やかに微笑んで、本当に満足そうに瞬いた日下部に、山岡の目が大きく見開かれ、ひゅっとその息が止まった。 「ぁっ、あっ、あぁぁぁぁっ…」 ガツンと殴られたような衝撃と共に、目まぐるしく移り変わる言葉と光景が、まるで早回しの映画のように、山岡の脳裏に怒涛のように映し出される。 『今度オレなんかなんて言ったら、お仕置きな?』 鮮やかに微笑むのは、日下部千洋? 「っあぁぁぁぁっ」 『愛してる。愛しているよ、泰佳』 『俺はただ、おまえを大切にしたいだけなんだ』 『おまえは、俺にとって、山岡なんかじゃないんだから。山岡だからなんだから』 『ふふ、おまえは、俺には何にも代えがたい、大切な人間なんだ。それを貶めるやつは、たとえ本人でも許さない』 『おめでとう。応援してる。頑張れよ』 『だから俺は、何度でもおまえに愛を伝えるよ?おまえが何度忘れてしまっても、理解できないともがいても。俺はおまえを愛してるから』 優しい笑顔で愛を語るのは誰? 切ない笑顔で微笑むのは。 「っ、あ、あ、あ、あ」 目一杯の愛情で、山岡を包み込んでくれる、この柔らかい気持ちの持ち主は…。 「あぁぁぁぁっ、日下部先生っ、千洋。千洋っ、オレ、オレ…っ」 「え…?や、ま、おか…?」 「あぁぁぁぁっ、オレっ…」 ガバッと頭を抱え込み、苦痛に満ちた目で叫び悶える山岡に、日下部もうっかりベッドの上に起き上がる。 「山岡っ!」 「ちょっと日下部先生っ…。あなたまだ絶対安静…っ」 「これは、あぁ、なるほど、そうですかぁ…」 駄目だったか、と諦めにも似た淡い笑顔を浮かべた松島が、ゆっくりと救急室の中に入ってきて、身悶え倒れ込んでいく山岡の身体を抱き止めた。 「あぁぁっ、オ、レ…」 ふらりと焦点を失った山岡の目が、スゥッと落ちてきた瞼の裏に消えていく。 「おっと…。少々、酔いが回り切りましたかね。お騒がせしました」 「松島先生っ、違っ…」 「ふふ、分かっておりますよ、日下部先生」 くたりと力を失くし、気を失ってしまった山岡の身体を、松島が危なげなく抱え込み、ゆっくりと救急室の外に連れ出していく。 「っあ…松島先生っ」 その後ろ姿に向かって、ふらりと伸ばそうとした日下部の手は、ピクリと小さく震えただけで、だらりと情け無く処置ベッドの上に落ちたまま。 「ッ、くそ…」 「ふっ、日下部先生。安心して下さい。悪いようにはいたしません」 背後の日下部の様子が分かったか、鮮やかに振り返った松島が、優雅に微笑みを残していく。 「山岡先生を守るため、その手まで賭けられてしまってはね…」 「松島先生…」 「僕の名前は雅なんです。引き際くらいはわきまえていますよ」 「松島、先生…」 「あなたの愛には、敵いませんでしたか…」 完敗ですねぇ、と微笑む松島は、山岡を連れて、静かに救急室から出て行った。

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