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第419話

術者の好みに合わせられた色温の無影灯に照らされ、感覚のない右手が置かれている。 自分が手術をされる側になるというのは変な感じだと、眉を寄せながら苦笑する日下部に、執刀医は困ったように微笑んだ。 「いくら見慣れているとはいえ、あまり見ないで下さいよ」 「やりにくいです?」 「そりゃ…。それに、いくら伝達麻酔でブロックしているとはいえ、術野を見ていたら痛くなりません?」 それが幻影だとしても、視覚情報が与える影響は大きそうだ。 「確かに、ちょっと怖いですね」 クスクスと笑う日下部は、麻酔のせいで、見事に感覚のない右手を、じっと静かに見つめていた。 「日下部先生?」 「ふふ。不思議なものですね…」 「え…?」 ふわりと目を細めて笑う日下部に、執刀医は、意味がわからず首を傾げた。 「未練なんか、ないつもりなんですけどねぇ。山岡先生じゃなくて良かった。そう心から思うんです」 「はぁ…」 ポツリ、と語る日下部に、執刀医はメスを手にしながら、日下部の手にそっと触れた。 「っ…」 「あ、え?感覚、まだ残っていますか?」 途端にビクッと身体を震わせた日下部に、執刀医が慌ててその顔を窺う。 「あ、いえ。感じません、何も」 「そ、そうですか?」 「はい…。何も、感じない。感じない、はずなのに…」 きゅぅっと眉を寄せてしまった日下部に、執刀医は静かにメスを置いた。 「日下部先生…」 「っ…っ、こんなことを思ったら、山岡先生に余計な責任を感じさせてしまう。山岡先生の重荷になる…っ、分かっているのに」 「日下部先生」 「戻りたい…ッ。外科医に…」 「っ…」 「戻りたい…。山岡の、隣に…」 1度は自ら手放した。 けれどもやっぱりどうしても無くしきれない。 (っ…だってまだ、こんなに愛してるッ…) あの時とっさに動いた身体が、その答えだった。 心を離した振りをして、山岡の心を守ったつもりでいたけれど、本当にそれで良かったのか? 物分かりのいい振りをして、山岡のためだと、山岡が辛くないならそれでいいと…諦め、潔く引いたことが…。 「っ、俺は本当は…失くしたくなかったんだ…っ。山岡の隣で笑うその場所を…。たとえ山岡をどれほど苦しませても、傷つけても…。俺は山岡の隣に、いたかった…」 自己中心的で、我儘で、醜くてドロドロで真っ黒な日下部の本音。 「あのとき原やとらに格好つけたけどっ…。山岡にも、格好つけて、手を離したけど…っ。俺は本当はっ…」 「日下部先生…」 「俺は本当はっ…」 「日下部先生…」 「未練しかないっ…」 「日下部先生」 「未練しかない。俺は、まだっ…」 くしゃりと顔を歪めて、深く俯く日下部に、執刀医は静かに足を下げ、微笑んだ。 「全麻に切り替えましょう」 「っ、っ…」 「今からするオペは、あくまで仮の…応急処置的なオペです」 「そ、れは…」 「探しましょう」 「せ、んせい…?」 「外科医の腕を、取り戻せるだけの技術を持った医師を。探しましょう?日下部先生の望む形で、この手を治せる方法を」 ひゅっ、と息を飲んだ日下部が、がばりと持ち上げた顔は、まるで迷子の子供が不安に泣き出す寸前のような表情をしていた。 「っ、っ…」 「だから今は…少し、おやすみなさい」 やって下さい、という執刀医の声のもと、麻酔科医がスッと動く。 緩やかに手放されていく意識に、ふわりと全身から力が抜け、日下部が最後に見たものは、千洋、と幸せそうに笑う山岡の笑顔だった。 一方、脳外科医局のソファーの上で、山岡は、ゆるりと浮上する意識に、重い瞼を押し開けていた。 「っ、っ?!」 途端に目の前に、吐息がかかりそうなほど近く、松島のドアップがあって跳ね起きた。 「嫌…っ」 咄嗟にパッと突き出した手が、ドンッと松島を突き飛ばす。 「お、っと。ふふ、おはようございます。お目覚めですね」 眠り姫さん?と微笑む松島が、優雅にお辞儀をした。 「は?ぇ?ぁ…?」 ぐるぐると大混乱しているらしい山岡の目が、ふらふらと彷徨っている。 「姫は王子の口づけで目覚めるのがセオリーですけれどねぇ」 フライングですよ?と笑う松島に、山岡はますます混乱した。 「姫って…」 とりあえず、1番引っかかったのはそこなのか。松島の言葉を拾って眉を寄せた山岡に、松島はふわり、ふわりと微笑んだ。 「残念ながら、あなたの王子は、僕ではなかったようですけれど」 「ぇ?あの…」 「キスの前に目覚められた。さて、山岡先生。何をどこまでご記憶ですか?」 「ぇ…?」 何を、どこまで。 その言葉で、とりあえずぐるりと周囲を見回した山岡は、なんだか頭の片隅が、ぼんやりと靄がかかったようにはっきりとしないことに気がついた。 「ふふ、今夜は僕と、飲みに行って、山岡先生、少々お酒が過ぎまして、倒れられてしまったんですよ?」 分かります?と微笑む松島に、山岡はザッと青褪めた。 「っ、それは、大変ご迷惑を…」 「いえいえ、とても楽しく飲んでいただけたのだと思うと、迷惑など」 「でも…ここまで、運ばせてしまいましたよね?」 見たところ、どこかの医局だ、と分かった山岡が、恐縮しきりで俯いた。 「あ、れ…?髪…」 途端にぱさりと目の前に落ちてきた前髪に、山岡の顔が歪む。 このところ、すっかり顔を出すことに慣れてしまっていた視界に、違和感があった。 「ふふ、なるほど。やはり、あなたの王子は彼1人ですか」 「ぇ…?」 「日下部千洋」 「っ!あ、日下部先生!」 松島の言葉に、ハッと目を見開いた山岡が、慌てたように視線を彷徨わせた。 「山岡先生?」 「っ〜!時間っ。時間、今、何時ですかっ?」 まずい〜!と慌てて時計を探す山岡に、松島の眉が寄る。 「今、夜ですよね?飲みにって、仕事上がりにですよね?あれ…?日下部先生に、行っていいか聞いた覚えがないんですけど…えっ、ならなおさら、こんな時間まで帰らないで、勝手に他の先生と飲みに行っていたなんて知られたら…」 怒られる…と青褪めた山岡に、松島は困ったように微笑んだ。 「なるほど」 「ぇ…?」 「ちなみに、帰るとは?」 「ぇ…あの、日下部先生と一緒に暮らしているマンションですけど…」 「ふむ。では、僕のことは」 「……?」 何の意図の質問だ?と首を傾げながらも、山岡はジッと松島の顔を見つめた。 「脳外の、松島先生…。えっと、あれ?何ででしたっけ?何かでなんだかお世話になって…そこから、交友…させていただいて…」 ぐにゃり、と顔を歪めながら、記憶を探り探りポツポツと漏らす山岡に、松島はとてもつまらなそうに笑った。 「やはり、克服してしまったのですね」 「克服…?」 「記憶が戻った瞬間に、記憶を失っていたという記憶を失う…」 「ぇ…記憶?」 なんのことだ?と首を傾げる山岡に、松島は鮮やかに微笑んだ。

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