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第420話

「説明でしたら、あなたのナイトにしていただいたらいかがですか?」 「ぇ…?オレのナイト?」 だから何のことだ、とますます首を傾げる山岡に、松島は優雅に微笑んで、スッとどこぞの方角を指差した。 「日下部先生」 「はぁ…」 「整形外科病棟にお泊まりになられていると思いますよ?」 「ぇ…?整形?泊まりって…」 まさか入院?と目を丸くする山岡に、松島はただ優雅に微笑んだ。 「っ〜〜!」 一体何が?なんで?と疑問符をたくさん浮かべた頭で、山岡は脳外科医局を飛び出して、整形外科病棟に向かっていた。 夜の静かな病棟内に、パタパタと山岡の足音が響く。 「っ、日下部っ、先生がっ、こちらにいらっしゃるって、聞いて…っ」 ガバッとしがみついたナースステーションで、中にいた看護師に思わず叫びかければ、チラリと迷惑そうに目を細められた。 「院内ではお静かに。それから、面会時間外…って、あれ?消化器外科の山岡先生?」 私服だ、と驚きながら、やってきた山岡の素性に気がついた看護師が、納得したように廊下の先を示す。 「1番手前の個室ですよ」 山岡先生ならどうぞ、と日下部の病室を教えてくれた看護師に、山岡はペコリと頭を下げて、廊下の先に駆けて行った。 ドクンッ、と大きく鼓動が跳ね上がる。 カーテンが半分開けられた、柔らかな月明かりが差し込む病室の中、横たわった日下部の身体は、静かに呼吸を繰り返していた。 「っ…」 青白く照らされた、その身体に、恐怖を感じた訳じゃない。 白く浮かび上がった頭の包帯は目を引くけれど、山岡の視線に止まったのは、もっと別の場所だった。 「う、そ、でしょう…?」 ふらり、ふらりと日下部のベッドの方に近づいていってしまう足が、ガクガクと震える。 「み、ぎ、手…?」 ぐるりと包帯に巻かれた日下部の右腕に、ふらりと伸びた手が、ピクリと震えた。 「骨折…?切創…?」 (何であれ、大したことはないんですよね?) 泣きそうな顔で、山岡が日下部の手を見下ろす。 「千洋…?」 一体何があったんですか?と顔を歪める山岡に、日下部の口元が、緩く弧を描いた。 「っ!日下部先生っ」 起きて…とベッドに飛びついた山岡に、日下部の瞳がゆるりと向けられる。 「山岡…。あぁ、泰佳」 ふんわりと微笑んだ日下部が、とても嬉しそうに目を細めた。 「っ…?」 途端に、ぎゅぅぅっ、と胸が締め付けられたかのように苦しくなる。 「っ…」 胸元をぎゅっと掴みながら、眉を寄せた山岡の目から、ぼろり、と涙が溢れて頬を伝った。 「っ、ぁ、な…で?」 山岡は戸惑い、疑問に思いながらも、その理由を知っているような気がした。 「泰佳」 違うよ、違う。 大丈夫。 と日下部の目が語る。 「っ、だけど、日下部先生の右手っ…」 包帯に巻かれたこの手が、もう思うように動かないんだろうことを、山岡は何故だか分かっていた。 「ふふ、外科医失格だね」 まさか利き手を怪我するなんて、と軽やかに笑う日下部に、山岡の涙が止まらない。 「ちょっと、無茶しちゃって」 「っ、ちが、う…。違うんですよね?」 「ううん。俺がしたことだ」 「だ、けど…」 「俺がした。そしてそれは、それだけの価値がある無茶だから。後悔は、してない」 にっこりと、艶やかに微笑む日下部に、山岡はただただ涙した。 「嘘です…」 「泰佳?」 「日下部先生が、自分から、右手を怪我するような真似を…。右手を傷つける可能性のある行動を取ることなんて…」 あるわけがない、と紡ぐ山岡の声に、日下部は困ったように微笑んだ。 「まぁ、でも、ただ夢中だっただけ」 「オレのせいだから…?」 「っ、泰佳?」 「オレのせい、なんでしょう?」 日下部の言葉に嘘や誤魔化しの気配があることに、山岡は気がついていた。 そして山岡は何故か、日下部の怪我に自身が関わっていることを理解(わか)っていた。 「違う」 艶やかに微笑む日下部が、はっきりと大きく首を振る。 けれども山岡はそこにはっきりと嘘の気配を感じた。 「気休めはいりません。どうせ、知れますよ?」 霞がかかったように、1部がはっきりしない記憶。 目の前で淡く微笑む日下部から立ち上る、嘘と誤魔化しの気配。 松島が漏らした記憶と克服という言葉に、決して馬鹿ではない山岡は、自身の身に何が起きていたかを、大体察していた。 「違う。おまえは関係ない」 「っ、そんな、優しさは」 いらない、と山岡が紡ごうとした、その時。 「山岡先生の言う通りだと思います」 ひょっこりと、病室の入り口から、原が顔を見せた。 「原…?」 「原先生」 同時に日下部と山岡の視線がそちらに向き、原がコンコン、と軽くドアを叩いて笑った。 「少しだけ開いていましたよ?」 「っ、原っ…」 だから聞こえてしまいました、と目を細める原に、日下部が慌てたように布団を蹴り捨てた。 「おっと。まだ安静でしょう?」 「原っ、言うなよ?言ったら許さない」 「さて、何のことですか?」 にこりと笑う原に、日下部の鋭い目が向いた。 「っ、原先生…。原先生はもしかして、全てを知っているの?」 山岡は山岡で、原の登場に縋りつく。 「まぁ、ほぼ全てを、間近で見ていると思います」 「っ、じゃぁ…」 「駄目だ、原!教えるなっ…」 「だから、アンタは…」 安静だと言っているでしょう?と、原が掴みかかってくる日下部を軽くあしらって、ナースコールに手を伸ばした。 「っ!原っ…」 「鎮静剤でも処方させてもらいましょうね」 にっこり。 かの日下部にも押し負けず、原は鮮やかに微笑んだ。 「こんなに弱った…しかも右手がほぼ使えないも同然の日下部先生には、全く負ける気がしません」 「原っ…頼むから、やめてくれ」 「嫌ですよ。おれは、山岡先生は知るべきだと思います」 「原っ…」 やめろ、と力なく原に伸びてくる日下部の手を、原は寂しそうに見下ろした。 「左手…」 こんなときにも、伸ばされてくる手は利き手じゃないのだ。 ポツリと、思わずといった様子で落とされた原の呟きに、シーンとした沈黙が下りた。 コンコン。 「どうしました?」 ふと、沈黙を破って、看護師が遠慮がちに入ってきた。 「あ、日下部先生、何だか眠れないらしくて」 鎮静剤を出してもらうように看護師に依頼した原に、日下部が必死でベッドから飛び出そうとした。 「ちょっ、日下部先生っ?」 危ない、と慌ててそれを押し留めた看護師に、原がにっこりと微笑んだ。 「そのままよろしくお願いします」 「っ、原!」 看護師に支えられてしまいながら、それでも日下部が必死で叫ぶ。 「ごめんなさい、日下部先生」 ふわりと微笑んだ山岡が、とても苦しそうに振り返り、するりと病室を出て行こうとする。 「山岡…」 呆然と、それを見送ってしまった日下部の小さな呟きが、ポツリと病室に落とされた。

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