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第421話
「っ…」
小さく息を飲み、きゅぅ、と唇を固く引き結んだ山岡が、何かを堪えるように、深く目を閉じた。
シーンと静まり返る夜の消化器外科医局。
あれからすぐに移動してきた山岡と原は、そこで静かにこれまでのことを話した。
山岡が記憶を無くしてしまってから、今までのこと。原は山岡に乞われるまま、原の知る限りの全てのことを、山岡に話して聞かせた。
「はぁっ…」
フーッと長く息を吐き出した山岡が、ゆるりと目蓋を持ち上げる。
原は、ピクリと緊張しながら、その目が開けられていくのを見つめていた。
「ありがとうございます」
「へっ?」
「ありがとうございます。全てを、包み隠さず教えてくれて」
不意に山岡に掛けられた第一声が、あまりに予想外のものすぎて、原は一瞬馬鹿みたいに呆けてしまった。
「あの、山岡先生…?」
「うん。これで色々と納得がいった」
ふわりと淡く微笑んで、どうにも曖昧な記憶と、そこかしこに感じる違和感、その全てに、原の話で得心がいったと、山岡は静かに頷いた。
「そっか。そっかぁ…」
スイと両手を持ち上げて、キュッと握った拳を見つめる山岡の目は、穏やかだ。
「っ…」
その、あまりに凪いだ山岡の様子に、山岡はもっと滅茶苦茶に取り乱すと思っていた原は、困惑にぐしゃりと顔を歪めた。
「っ、山岡先生、あなたは…」
「うん。大丈夫。分かってる」
すべて。
山岡が何をし、日下部に何を突き付けたのか。
日下部が何をどう考え、どうしたのか。
全てを分かった上で、山岡は大丈夫だと微笑んでいる。
「っ、おれは、あなたを傷つけたいわけでは、決してないんですっ…」
「うん」
「だけど、あまりに、日下部先生が…っ」
「うん」
くしゃりと泣きそうに目を歪める原に、山岡は穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。理解していないわけでも、現実逃避をしているわけでもない。ちゃんと全部、分かっているから」
「っ、山岡先生…」
「ごめんね。原先生にも、たくさん心配を掛けて、傷つけて」
「っ、おれは…っ」
「うん。大丈夫。分かってる」
「山岡先生…?」
穏やかに、淡く緩く微笑む山岡に、原のぼんやりとした目が向いた。
「ごめんね。話してくれて、ありがとう。あー、それじゃぁオレ、今日はもう帰るから…って、オレ今、当直室を占領して、ここに寝泊まりしているんだっけ?」
じゃぁ荷物もこっちかな、と首を傾げながら、ゆっくりと立ち上がる山岡に、原の視線は無意味についていった。
「原先生は、当直?違うなら、ほどほどにして切り上げて、帰ってね」
おやすみ、と小さな微笑みを残して、山岡がパタンと医局を出て行く。
シーンとした夜の医局の空気が、淡く静かに原を包み込んだ。
*
『っで、朝っぱらから、なんやねんな』
キーンと耳鳴りがしそうな怒声が、原の手にしたスマホから飛び出した。
『ったく、こっちは今日、当直明けやで』
「あ、おれも結局病院に泊まっちゃったから、仲間ですね」
へらり、と顔を緩めてしまった原は、夜、山岡が当直室に行ってしまってから、結局なんだかんだと医局で夜を明かしてしまっていた。
『はぁん?で?ちぃが右手を怪我して再起不能で、山岡センセはそれがショックで記憶を取り戻して?』
「はい」
『んで、今度は記憶を失くしてた記憶を失くしたから、その間の出来事を全部吹き込んだって?』
「はい」
『朝からなんちゅ~ヘビーな話を持ち込むねん』
やめろや。こっちは眠いんや。とブチブチ文句を垂れている谷野に、申し訳なさそうに身を竦めながらも、原は医局の自分のデスクでヒソヒソとスマホに向かって話し掛けた。
「朝から申し訳ないとは思うんですけど、こんな話、とら先生くらいしか聞いてもらえる人がいなくって…」
『ふん。そんで、どしたん。その困った声に、朝からおれんとこ電話してきたくらいや?山岡センセ、事実を知って壊れてでもしもうたんかいな』
ちゃっちゃと本題に入りぃ、と促す谷野に、原は見えないと分かっているこちら側で、こくりと頷いた。
「っ、ん。静かなんです」
『何が』
「山岡先生が。静かに、分かった。大丈夫って、微笑んで」
『なるほどなぁ』
ふむ、と今度は向こうで深く頷いた気配がして、谷野の長い溜息が聞こえた。
「とら先生?」
『だから言ったんや。もしも山岡センセの記憶が戻ってしまったら。そんときに、ちぃがした選択を、行動を、山岡センセが知ってしまったらどうなるか』
「まさに、今…」
『あぁ。これが、海外に行ってしもうた後じゃなかったのは、幸いか、どうか』
「だけど…」
『せやな。ちぃが、山岡センセを庇って、利き手を怪我してしもうたタイミングや。余計に最悪やろ』
いい加減にしいや、と呟く谷野が、再び深い溜息を、ハァ~ッと長く吐き出した。
「とら先生…」
『絶望や、いうてやったのに。真っ暗闇や。落ちるんや。そう教えてやったのに』
「とら先生」
『自分が記憶を失くしたせいで、ちぃにどんな思いをさせ、どんな選択を迫ったのか、それを知っただけでも、絶望や』
「……」
『それを、ちぃの右手まで犠牲にしたやて?どうなんねん。山岡センセの心は、どこまで堕ちんねん』
冗談じゃないわ、と鼻を鳴らす谷野に、原は戸惑いながら、ぽつりと口を開いた。
「でも、その、山岡先生は、一切取り乱すとかなくて…」
それが逆に気持ち悪くて電話をしているんだけど、と言う原に、谷野は軽く笑った。
『せやろな』
「へっ?」
『山岡センセはな、漆黒なんやて』
「漆黒…?」
『せや。すべてを飲み込む真っ黒。1点の曇りもない』
「え…?」
ははっ、と嘲るように笑い声を漏らした谷野に、原は戸惑い、目を彷徨わせた。
『凪や、ゆうたな。記憶喪失んなってから、今までのこと、全部知った山岡センセは、取り乱すこともなく、ただ静かやったって』
「はい…」
『山岡センセはな、何もかもを吸収し尽くす漆黒なんや。昏い深い闇を持っとって、どんな苦しみも悲しみも、全部自分の中に飲み込んでしまうんや』
「っ…それは」
『まさに今がそれやろ。どんな痛みも苦しみも、山岡センセは全部自分の内に受け止める。全てをその身体一身に背負いこんで、それでも両足踏ん張って立つんや』
「と、ら、先生…」
ひゅっ、と変に息を吸い込んだ原の喉が、鋭く音を立てた。
『絶望や…。山岡センセは、真っ暗闇のどん底におる。それでも微笑む、強い、お人やねん…』
だから、静かなのが当たり前や、と告げる谷野に、原の目が大きく見開かれた。
「っ、おれが、したことは…っ、間違っていましたか?」
『いや…。遅かれ早かれ、知れたやろ』
山岡は決して馬鹿ではない。昨晩、原が全てをぶちまけることをしなかったところで、近いうちに山岡自身で真実にたどり着いてしまっただろう。
「っ、だけど…っ。おれは本当にただ…」
『分かっとるよ』
「え…?」
『分かっとる。山岡センセはな、原センセの気持ちも思いも考えも、全部分かっとって、それで「分かった」って言っとるんや』
「そんなっ…」
『そういうお人やで』
「っ、く…」
『そういう、お人なんや』
しんみりと、小さく呟く谷野の言葉に、原の顔がくしゃくしゃに潰れた。
「っ、おれは…」
『うん。これから先、2人から目を離すなや』
「はいっ、はい」
『あの2人にな、もう間違わすなや…』
「はいっ」
『おれも、そっちに行けたらいいんやけどなぁ…。あいにく、おっそろしいほど人手不足やねん…』
「う、そうですか…」
『なぁ原センセ?ウロの医師、興味ない?』
やってみたら合うかもやで?と冗談めかして笑う谷野に、原がゲッと喉を鳴らした。
「あ、あんまり?だっておれ、将来は消化器外科医って決めてるんで」
『でも元オーベンに放り出されたんやろ?あちこちの科にローテするより、うちで揉まれてみん?』
「とら先生…。おれをその「人手」にカウントしたいだけですよね?」
その魂胆が丸見えだ、と言い返す原に、谷野はハッハッと盛大に笑い声を上げた。
『バレたか。せやし、医師不足は深刻なんやもん』
「分からなくもないですけど。お断りします」
『ちぇ。まぁ、原センセには、あの厄介な2人を見張っててもらわなあかんしな』
「そうですね」
『まぁとりあえず、徹夜の寝不足を速攻で回復しぃ』
「え…?」
ふふん、と得意そうに鼻を鳴らす谷野に、原はハッと、いつの間にか気落ちしていた気分が浮上していることに気づいた。
「あ……」
『先輩たちの出勤前に、ちょっとでもええから寝ぇよ』
医者は身体が資本や、とウインクする谷野の顔が、目に浮かぶような気がした。
「あの、とら先生。ありがとうございました」
『礼ならいらんで』
「でも…」
『ま、どうしても、いうなら、せやな~。朝っぱらからの電話対応やしな~。うん、あれや、遊園地』
「はい?」
『ずっと前にな、ちぃと山岡センセと約束してん。もちろん、原センセも一緒にっていう話でな、行くことになってんねん』
「はぁ…」
『連れてってや』
「っ…」
『4人で、必ず行こな?』
それに付き合ってくれればいい、と笑う谷野に、原の喉がひゅっと鳴った。
「はいっ、必ず」
2人が寄り添う未来を。手を取り合い直す未来を、谷野は見ている。
ぐっと腹に力を入れた原も、深く、強く頷いて、同じ未来を真っ直ぐに見据えた。
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