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第422話
そうして、原がすっかりソファーで眠り込んでしまった、朝の医局に、当直室泊まりの山岡がのっそりと起きてきた。
いや、その目の下の微かな隈を見る限り、こちらもこちらで、どうやら一睡もしていないのか。
「はぁっ…」
どさり、と大量の文献を自分のデスクに持ってきた山岡が、ソファーでぐっすりと眠る原を見て、小さく苦笑した。
「結局泊まっちゃったの?」
当直室、使っちゃっているもんなぁ、と困ったように微笑みながら、すっかり蹴り飛ばされて床に落ちている毛布を、そっと原の身体に掛けてやる。
スゥスゥと静かな寝息が繰り返されていることを確認して、山岡は自分のデスクに戻り、積み上げた文献を、また片っ端から広げ始めた。
「……」
こつこつと、静かな時を刻む音が、医局に響く。
時折原の小さな呻き声や、山岡が資料を繰る音が微かにその静寂に混ざった。
「んっ…」
まだ他の医師の出勤前の時刻。
どうやら短時間でひと眠りしたらしい原が、唐突に瞼を持ち上げ、腕を伸ばした。
「ふぁぁっ…んっ。ジャスト30分か。よく…はないけど、寝たぁ」
少しは睡眠できた、と上半身を起こした原が、ふと、医局のデスクに座る人影を見つけた。
「どわっ…っと、あ、山岡先生。おはようございます」
早っ…と僅かに引いている原を、山岡がふらりと振り返る。
「あ、おはようございます。起こしちゃいました?」
「え?あ、いえ。起きました」
「そうです?」
「山岡先生は…早くから、何を…」
定時にはまだ早い、と欠伸を噛み殺しながら、原がトテトテと山岡のデスクに近づいた。
「あ…それ」
「ん?」
「まさか山岡先生、夜中…?」
ぱらり、と文献を捲る山岡の手元を覗き込み、チェック前、チェック済というように分けて積まれている本を眺めて、原が驚いたように身を引いていた。
「あ~、うん」
当直室を占領しちゃってごめんね、と微笑む山岡の顔は、相変わらず穏やかな笑顔だ。
「それは構わないんですけど…。これ」
「うん、オレは専門外だからね」
勉強中、と文献を軽く叩いた山岡の手元から、ひょいっと1冊を掠め取って、原がパラパラとその中身を流し見た。
「整形外科から、手外科に末梢神経外科の専門書…」
「……」
「マイクロサージャリー…腱移行術…。うちには、手外科の専門医、いませんよね?」
どこからこんな文献を、と山岡を見る原に、山岡は小さく頷いた。
「整形外科医局から借りてきたけれど、うん。原先生の言う通り、うちの病院に、手外科の専門医はいない」
「っ、っ…」
「夜中で悪いと思ったけれど、前にいた病院のことも聞いてみた」
「あ、大学病院…?」
「うん。確かに、そこなら何人か専門医資格を持つ医師はいたよ。だけど、外科医の手を、以前のように、綺麗さっぱりと、という話になると、やれると請け負ってくれる医者はいなかった」
「……」
すぅっ、と静かに息を吐いた山岡に、原はただ黙り込むしかできなかった。
「だからって、オレがこうして専門書を読み漁って、付け焼刃の勉強をしたってどうしようもないことくらい分かってる」
「山岡先生…」
「今から整形外科医に?何年も経験重ねて、専門医資格を?そんなの馬鹿げてる。そんなことをしても仕方がないことくらい分かってる」
「っ…」
「だけど、どこかに1つでも希望が。どこかに1つでも答えがあるのなら、オレは見つけ出さないといけないから」
ジッと大量の文献を睨み、鬼気迫る表情でそれを読み進める山岡に、原はただきゅぅっと唇を噛み締めた。
「でも、山岡先生は、消化器外科の専門医です…」
「分かってる。オレがするべきことは本当はなんなのか…。日下部先生が抜けてしまう分も、オレが倍仕事をこなさないとならないことも」
「山岡先生…」
「海外のことも。取りやめるつもりでいる。オレ1人が、何もなかったような顔をして、向こうに行くことはできない」
この医局を、放り出して行けない、と言う山岡が、パタンと今読んでいた文献を大袈裟に閉じた。
「ごめん。ちょっと日下部先生のところに行ってくるね」
朝カンファまでまだあるから、と、文献をチェック済の方の山にドサリと乗せた山岡が、立ち上がって医局の出入り口に歩いて行った。
「山岡先生…」
「大丈夫。他科には迷惑を掛けないし、仕事までには戻るから」
ふんわりと、原の心配そうな顔に向かって微笑んで、山岡は静かに医局を出て行った。
コンコン。
「日下部先生、おはようございます。入っていいですか?」
そろり、整形外科病棟にやって来た山岡は、日下部の病室の前に佇んで、そっと室内に声を掛けた。
「山岡…?」
どうぞ、と応えが返った室内に、するりと身体を滑り込ませる。
中では日下部がベッドの上に起き上がり、静かな呼吸を繰り返していた。
「おはよう。どうした?」
にこり、と微笑んだ日下部は、入ってきた山岡の目が、ジッと自分の右手に注がれていることに気づいていた。
「聞いちゃったか」
「……」
ははっ、と軽やかに笑う日下部に、山岡の頭がコクリと上下する。
「どこまで?」
「全部です」
ゆっくりと、日下部のベッドに近づいてきた山岡が、静かに頭を下げた。
「山岡?」
「っ、謝罪が無意味だということは分かっています。だけど…っ、ごめんなさい」
「泰佳…」
大丈夫、と微笑む日下部に、山岡は深く顔を歪めた。
「日下部先生の、手をっ…」
「泰佳」
「それに、千洋のことも…っ」
忘れた、と絞り出すように告げる山岡に、日下部はただ静かに首を振った。
「っ、オレ…」
「うん。海外、行くの、本当は迷ってた?」
「っ、それは…」
「俺たち、そこから間違えたんだな」
過失はお互い様、と笑う日下部に、山岡はくしゃりと眉を寄せた。
「行きたくなかったわけじゃないんです。日下部先生のことを信じていなかったわけでも」
「うん」
「だけどただ、怖かった。日下部先生が遠く海の向こうに離れてしまったとき、オレが…。笑って行ってらっしゃいなんていう日下部先生が…」
「うん」
「っ…オレの臆病さで…オレは千洋を、こんなに傷つけ…っ」
ふるりと震える山岡の手が、日下部の包帯に包まれた右手に向かった。
「っ、海外に行くのはやめました」
「泰佳」
「必ず、必ずオレが治しますっ。治せる技術を、治せる医師を、見つけます。いなければ、オレが何年かかっても、勉強して、技術を習得して、必ず治しますから…っ、だから」
「泰佳」
「オレは何を差し出したっていい。何を犠牲にしてもいい。だけど、日下部先生のこの手は…この手だけはっ、このままにしちゃ、いけない…っ」
そのためにならなんだってする、と絞り出すように告げる山岡の手を、日下部はそっと自由な左手で遠ざけた。
「おまえは、消化器外科の専門医だ」
「っ、それは…っ」
「俺の手を治すのは、おまえの仕事じゃない」
「日下部先生っ!」
「海外、行けよ」
「っ、そんな…」
「だって、俺が守った」
ふわり、と微笑みながら、先ほど退かした山岡の手を、そっと左手で持ち上げて、日下部は敬虔な仕草で、そっとその手の甲に口付けた。
「この先もまだ、ずっと多くの命を掬うこの手だ」
「っ…」
「海外に行って、もっと多くの技術を得て、たくさんの病に苦しむ人の命を掬い上げる、この手を」
「っ…日下部先生」
「天才外科医、山岡泰佳。その手を、俺は守ったんだぞ?海外、やめるなんて言わせない」
「っ、だけど…っ」
「俺は…俺なら、大丈夫だから。これでも、あのセンリグループの、御曹司だったりするんだよね」
「日下部先生っ…」
「俺は、外科医をやれなくなったって、どうとでもなるんだ」
な?と微笑む日下部に、山岡はただ、ひたすらに首を振った。
「オレは行かないっ。行きませんっ。日下部先生をこのままにして…こっちの医局まで、滅茶苦茶にして…っ」
「行け。だって、おまえの信念だろう?山岡汰一さんとの約束だろう?おまえが何よりも守りたいものなんじゃないのか」
「っ~~!そう、だった、けど…っ。そう思っていたけど…オレは…」
きゅぅ、ときつく眉を寄せ、深く俯く山岡に、日下部はそっと自由な左手を伸ばした。
「俺が弱くした?」
「っ、っ。違います…。オレが、調子に、乗ったから…。自分が疫病神だってことを、忘れてしまいそうになっていたから」
「それこそ、違うな」
「っ~!だって、前に麻里亜先生が言っていたんですっ」
「土浦麻里亜?また随分と古い話を」
「でもっ、麻里亜先生の言っていた通りになった。オレは疫病神。関わった人間をみんな不幸にするっ。確かに1度は跳ねのけた…っ、その言葉を。せいぜい信じて失ってから、絶望と後悔にのたうつのはオレだと…。その通りだ。だからオレは」
ぐ、と腹に力を込め、ジッと日下部を見つめた山岡の目を、日下部は静かに受け止めた。
「これ以上、誰かを不幸にしちゃいけない。オレはすでに、千洋の未来を奪ったっ。千洋の人生を滅茶苦茶にした。こんなオレの未来は、もういらない。これからは、千洋に償うためだけに、生きて…」
「泰佳」
「っ…」
「泰佳。俺はね、1つも不幸になんてなっていないよ?」
ふわり、と山岡の頭を撫でた日下部の左手に、山岡の身体がビクリと竦んだ。
「俺は、おまえが俺に全てを差し出していいと思っているのと同じように、俺はおまえに全てを差し出せると思っているんだ」
「っ、千洋…」
「だから、おまえを守れて、俺は幸せだよ。おまえの未来のためになら、この手1つなんて何も惜しくない」
「千洋っ」
「愛してる。愛しているんだ、泰佳。だから、おまえは迷わず、真っ直ぐ前を向け」
するりと頬に滑る日下部の手が、山岡の頬を流れる涙を掬った。
「愛している、泰佳」
ふわりと下がっていった日下部の左手が、だらりと落ちた山岡の左手を取る。
「前は職業柄って諦めたけれど、おまえが俺との距離にこんなにも揺らぐと知ったら…。縛ってあげる。ここを、俺に、予約させて?」
そっと持ち上げようとした日下部の右手は、力なくダラッとベッドの上に落ち、苦笑した日下部が、一旦山岡の左手を離して、その胸ポケットに指先を伸ばす。
「ち、ひろ…?」
「ふふ、指輪。本物は、すぐに買って贈るから」
「ゆびわ…?」
するりと山岡の胸ポケットから、油性のサインペンを取り上げた日下部が、山岡の左手薬指の付け根にぐるりと、黒い輪を書き記す。
「どんなに距離が離れても。例え海を越えて遠くにいても。俺とおまえを、繋ぐ気持ち」
「っ、っ、ふ…」
「愛している、泰佳。おまえを手放そうとして痛感した。おまえを守って実感した。俺は、この世で何より、山岡泰佳が大切なんだって」
「っ、ぁ、ぁっ…」
「俺はもう、外科医でいられないけれど。おまえの隣に医師として立ち並ぶことはできないけれど。それでも、おまえの足手纏いにならずに生きていくから…」
「千洋っ、千洋っ…」
「俺と、償いなんかじゃなく、愛情から、一緒に生きてくれないか?」
「っ…っ、あぁっ」
「泰佳。結婚しよう?」
ふふ、と悪戯っぽく笑った日下部のプロポーズに、山岡はふにゃりとくしゃくしゃな泣き笑いになって、日下部の、生き残った無事な左手を取り上げた。
「千洋だけが…っ、千洋だけが、オレの、光なんですっ…」
ボロッと熱い涙を零しながら、山岡が日下部の手から奪い取ったサインペンで、日下部の左手薬指の付け根にぐるりと黒の輪を描く。
「本物は…っ、一緒に、選びに、行きましょう…っ」
ふにゃりと笑った山岡の、涙でぐしゃぐしゃな顔は、それでも切ないほどに美しかった。
「ふふ、幸せなものだね」
「千洋…」
ぐるりと黒い輪が描かれた左手を、嬉しそうに光に翳して、日下部がにんまりと笑う。
「日本ではまだ、同性婚は認められていないし、気持ちの上でだけの話だけれどね」
「はいっ、はいっ、十分です」
「でもまぁ、いつか、機会があればカナダにでも」
「ぇ…?」
「俺はこの先、当分は療養と模索期間になるだろうし。おまえの留学先に遊びに行くついでに、カナダに寄り道でもしてね」
「ぇ?え?」
「ふふ、知らない?あの国は、どこの国籍の人間同士だって、同性同士の結婚を認めてくれるんだよ?」
「そう、なんですか…?」
「ちゃんと婚姻証明書も出してくれる。もちろん日本に持ち帰っても、なんの法的効力もないものだけれど」
「っ、っ」
それでも、日下部が現実に、山岡との結婚を形にしてくれようと考えている思いが伝わってくる。
「オレで、いいんですか?」
「おまえがいい。おまえこそ」
「千洋がいい。千洋がいいんですっ…」
あなただけだ、と微笑む山岡を、日下部は2度と手放さないと、深く抱き寄せた。
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