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第423話

「それじゃぁ俺は、リハビリでも頑張るかな」 「オレはこれまでと、日下部先生の分まで、バリバリ働きます」 「うん。海外への準備も。並行して頑張れよ」 「っ、はぃ…」 「ふふ、山岡が向こうに発つ頃までには、文字くらい書けるようになっているといいなぁ…」 送別会の色紙、直筆で書きたいからね、とウインクを飛ばす日下部に、山岡は「なんですか、それ」と恥ずかしそうに笑った。 「じゃぁ…」 「うん」 「また来ます」 「そんな余裕がある?」 「うっ。仕事も準備も、頑張ります」 「無理しないように」 「はぃ。日下部先生も。その…」 お大事に、と言いたいけれど、言葉にはならない。 ぐっと言葉を飲み込んでしまった山岡に、日下部はふんわりと微笑んだ。 「ありがとう」 にこりと笑う日下部に、山岡の目がゆらりと揺らぐ。 「おまえの傷はおまえのもので、おまえの強さを俺は尊敬しているけれど」 「日下部先生?」 「俺もいるから」 「ぇ…」 「1人で何でも背負い込まなくていいんだぞ」 何のための約束だ?と左手を掲げて笑う日下部に、山岡はハッと自分の左手を見下ろした。 「なっ?」 ひらりと振られる日下部の左手に、きゅぅっと拳を握り締めた山岡が、パッと笑顔を作って、ペコリと頭を下げた。 「失礼しますっ」 「うん」 ふわりと髪を靡かせて、病室を出て行く山岡の後ろ姿を、日下部は目を細めて見送った。         * 「それで、すっかりよりを戻してしまったということですか」 面白くありませんねぇ、と言いながらも、どこか楽しげに微笑む松島に、山岡は申し訳なさそうに俯いた。 「あの、オレ、松島先生には、本当に色々とご迷惑を…」 「はい。僕の純情を弄んでくださいまして」 「っ…」 「ですが、まぁ僕の方も、日下部先生のものであると名高いあなたに、ちょっと邪な思いがあったのも事実ですからね」 「松島先生…」 「盗ってやりたい、と…。純情、だけでなかった醜い下心を認めます。だから、お気になさらず」 それほど失恋の痛手はないんですよ、と朗らかに笑う松島に、山岡はオドオドと俯いた。 「ふふ、それでも、いかがですかね?友人関係は」 「ぇ…」 「山岡先生がよろしければ、僕の方は、このままご友人でいさせていただきたいのですけれど」 「っ、オレ、いいんですか?」 「いいも何も、同レベルで話やオペの出来る医師など、久しく出会ってないですよ。あなたをご友人の座から手放すのは、非常に惜しいです」 「ぁ、ぅ、でも、その…」 「焼きもち大魔王?ふふ、有名ですからねぇ」 日下部先生の独占っぷり、と笑う松島に、山岡はぎょっとして顔を上げた。 「大丈夫ですよ。ほどよくお2人の関係に、刺激を提供し続けますので」 「ぇ?あ、ちょっと、松島先生?」 それはまったく大丈夫な話じゃない、と慌てる山岡に、松島は優雅に微笑んだ。 「現に」 ほら、と松島が示す先は、病棟連絡通路の、大きな窓の方で。 「あれは殺意、ですかねぇ?」 おお怖、と腕を擦る仕草をした松島の、視線の先を追ってみれば、山岡たちがいる中庭奥のベンチから、ちょうど向こうに見える通路の窓に、片腕を首から吊った日下部らしき人物が、明らかにこちらに身体を向けていた。 「ふふふ。あなたの友人の座も、なかなか面白い」 「ちょっ、松島先生っ?」 離れて!と慌てて松島から距離を取る山岡は、殺意どころではない。日下部の黒ぉいオーラをひしひしと感じ、身の危険に全身を竦めた。 「ふふ、利き手を負傷中の日下部先生には、一切負ける気がしませんけれど」 「う、それは…」 まぁお陰で、嫉妬イコールお仕置きの図式が、さすがに成り立たないのは救いか。 「山岡先生、どうやら諦め悪く、日下部先生の手の治療法を探していらっしゃるんですって?」 「っ、は、ぃ…」 「請け負える医師、見つかりました?」 「いいぇ…」 松島の言葉に、ストンと俯く山岡に、松島はそっと、1枚の紙切れを差し出した。 「連絡、してみてください」 「ぇ…?」 「諦められないのでしょう?」 「っ、はぃ…。日下部先生は、少しも気にしていないような素振りをしていて…。手のことはいいって、言っていますけど…っ」 「はい。最後の最後の最後まで、探し尽くさないと、気が済みませんよね」 「はぃ…」 どうにか、駄目もとでも。どこかに僅かでも、日下部の手を治せる希望があるのなら。 どんな労力も惜しまないと、山岡はあれからもひたすらに、高名な手外科医、ありとあらゆる専門書に論文、日本国内を問わず、文献を読み漁り、探しまくっていた。 「でしたら、ほんのわずかな道標にはなるかと」 「っ…?」 「僕が、医学生のときにお世話になった教授の、弟子でもあり、私と実力伯仲の友でもある人なのですけれどね」 カサリと受け取った小さなメモ用紙には、綺麗な字で、人名と思しき文字列と病院名、携帯番号とメールアドレスと思われる数字とアルファベットの列が記されていた。 「っ、これ…」 「はい。その名前で調べていただければ、経歴その他はすぐに出てくるかと」 「っ…」 「脳外、心外、更には手外科まで…とにかく細かい作業が好きな方でして、それが高じ…。この人ならば、もしかしたら、と」 「松島先生っ…」 「はい。連絡した際に、松島雅、と言っていただければ、お話、分かるようにしておきます」 縋れる藁に、なればいい、と微笑む松島に、山岡は、感謝でいっぱいの目を向けた。 「ありがとうございますっ」 ガバッと頭を下げて、思わず松島の手を取ってしまった山岡に、ぶわっと吹き付けたのは、遠く連絡通路からの、殺気か。 「ぁ……」 「クスクス、本当に、飽きないお方ですね」 お2人とも、と笑う松島が、チラッと連絡通路の方に目を向けた後、にっこりと優雅に微笑んだ。 「お礼でしたら、また夜に、飲みにでも」 一杯付き合って下さい、と笑いながら、そっと山岡の身体を引き寄せ、わざと抱き込むようにしながら、その耳に唇を寄せて囁く。 「っ〜〜!松島先生っ!」 殺気が!殺人光線が!と焦って慌てて松島をぐいっと押し返し、耳を押さえて涙目になる山岡が、ビクビクと見上げた、連絡通路のその窓辺には。 「っ…」 この距離からでは、その表情なんてはっきりと見えるはずがないのに、何故か日下部が、にっこりとドス黒い、どSな笑みを浮かべたのが見えた気がした。 『お、し、お、き、だ、な』 パクパクと動いた日下部の口元も、当然読み取れるはずもない。 はずもないのに何故か、山岡の耳には、その言葉がはっきりと、音になって届いた気がした。 「ひっ…」 変な悲鳴を上げ、ぴしりと固まってしまった山岡に、松島の、楽しげで優雅な笑顔が向く。 「ふふふ、あなたが海外に渡るまで、楽しいおもちゃを見つけてしまいました」 当分お2人で遊べそうだ、と笑う松島に、山岡の眉の下がった情け無い顔が向いた。 それを見て、松島はますます楽しそうに口元を緩ませ、とうとう我慢の限界を突破したのか、ひらりと身を翻し、通路を駆け出す日下部の姿が、遠く建物内で揺れていた。

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