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第424話
*
ヒソヒソ、ざわざわ。
こちらは消化器外科病棟ナースステーション。
『山岡、本当に許せない』
『うんうん、今までの散々の所業。その挙句の、日下部先生の手…』
ギロリと憎々しげな看護師たちの視線が、ナースステーション中央のテーブルで、一心不乱にタブレットで何かを見ている山岡の背中に向けられた。
『文句の1つも言ってやりたいけど…』
『うん、でも、何これ。山岡…』
ヒソヒソ、ざわざわ。
山岡の背後で、声を潜めて雑談を交わし合う看護師たちの表情は、どうにも困惑に変わった。
『何者も寄せ付けないような背中…』
『一心不乱に、何を鬼気迫った顔で見てんの?』
ざわざわと噂話を続ける看護師たちは、山岡が醸し出す、あまりの気迫に、誰も声を掛けられずにいた。
「っ、本当だ。この人ならっ…」
不意に、パッとタブレットから顔を上げた山岡が、ガタンッと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「きゃぁっ!」
「きゃっ、何っ?」
「ぁ…す、すみません」
突然の山岡の行動に、驚いた看護師たちが、悲鳴を上げて飛び上がった。
「あ、いえ…」
「その、どうかされたんですか?」
おずおずと、不審な山岡の行動を窺いながらも、ようやく看護師たちが声を掛けたところで。
「山岡」
「っぁ、日下部先生…」
「おまえ、よくも逃げて…」
無駄足を踏ませやがって、と怒り心頭の日下部に、山岡の顔が状況にそぐわずパッと輝いた。
「日下部先生っ」
これこれっ、と、タブレットの画面を見せながら、ナースステーションを横切り駆け出す山岡に、日下部の眉がくしゃりと寄る。
「見つけた!見つけたんです、日下部先生の手を、元通りに治せるお医者さん!」
今、Eメールを…と息急き切って報告する山岡に、日下部が毒気を抜かれてキョトンとなった。
「何おまえ、まだ諦めてなかったの?」
「っ、当たり前です…」
「……」
「オレの責任だって感じているところもありますけど…オレは、日下部先生の右手を…。外科医日下部千洋を、失いたくないんです」
「山岡…」
「日下部先生が、医者じゃなくても、例えば会社の経営者だってやれるっていうのは、分かっているんです。だけど、それでもっ…」
「山岡」
きゅぅ、と苦しそうに眉を寄せた山岡に、日下部の自由な左手がふわりと伸びた。
「オレは取り戻したいんです。日下部先生、本当に、未練なんて1つもないんですか?初めはお父様への当てつけで、医学部への道を…医師を目指したと言っていましたけど、今、日下部先生は、まごうことなく医者ですよね?」
「っ、山岡…」
「オレは、この手が何度も、命を掬い上げるのを間近で見てきました。この手が何度も、命を繋ぐ手助けをしてきたのを見てきました…っ」
きゅっ、と伸ばされた日下部の左手を捕まえ、包帯に巻かれて吊られた日下部の右手を撫でて、山岡が、へにゃりと奇妙な泣き笑いの顔で、真っ直ぐに日下部を見つめた。
「この手をオレは…。この手は、医師の手ですっ」
これまでも、これからも、ずっと。
「だから…っ」
きゅっ、と山岡の唇に、力が入ったところで、ヴヴヴ、ヴヴヴ、と、山岡の白衣のポケットで、山岡のプライベート用のスマホが振動音を立てた。
「っ!Hello?」
サッとスマホを取り出し、着信番号を確認して瞬時に出た山岡の第一声に、日下部がひゅっと息を飲み込む。
「……はぃ、松島雅先生の……はぃ、っ、ご興味を…?っ、はぃ!細かい検査データと画像ですか?はぃ、もちろんです。メールで…はぃ」
すぐに日本語に切り替わった山岡の通話は、片一方の声しか聞こえない。
けれども、その言葉と徐々に上気していく山岡の頬に、日下部の目にも微かな期待が浮かび始める。
「っ、っ、はぃっ!よろしくお願いします!」
ぺっこりと、スマホのこちらで、見えはしないのに深々と頭を下げた山岡が、通話を終わらせながら、ゆっくりと顔を持ち上げていく。
「っ、日下部先生っ。この手を、もしかしたら治してくれるかもしれないお医者さんっ…。画像とデータを送って下さいって!やってみたいって!治せるだろうって!請け負って下さるって!」
「山岡」
「だから、一緒に行きましょう?海外!」
「え…?」
「オレの留学予定の、同じ州内の病院なんですっ」
がばりと日下部の両手を取って、山岡が詰め寄った。
「だから、一緒に。日下部先生は治療に、オレは留学に。日下部先生とまた、並んで歩いて行くために…っ」
ふわり、と笑った山岡の目から、はらりと涙が優しく一筋、その頬をキラキラと伝った。
途端にワァッと沸いたナースステーションの空気に気圧されて、日下部は、山岡に取られた右手の鈍い痛みも忘れて、こくりと頷いてしまっていた。
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