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第425話

        *  * 「はぁ〜、寂しくなるねぇ」 しんみりと、皺の刻まれた柔らかい目元を緩ませて、光村がにこりと微笑んだ。 「本当に、寂しい。でも、頑張ってきて下さい」 日下部先生、山岡先生、と送り出す看護師たちの声に、日下部と山岡は、ふわりと笑って頷いた。 「こちらの引き継ぎは滞りなく、新しい医師も、無事2人ほど確保出来ましたし」 「そうだね。今まで渡航準備の傍ら、よくやってくれたよ」 ありがとう、と微笑む光村に、山岡は恐縮しながら首を振った。 「こちらにご迷惑をお掛けするわけにはいきませんから。それよりも先日は、盛大な送別会を、ありがとうございました」 ぺっこりと、深く頭を下げる山岡は、そのときにもらった色紙を、今も大事そうに抱えている。 「ふふ、相変わらず、酔ったきみは面白かったよ」 特にそれに過剰反応しまくる日下部くんがね、と笑う光村に、山岡の隣で日下部が憮然としていた。 「まぁ、向こうに行っても仲良く、元気でな」 「はぃ、ありがとうございます」 「日下部くんも、治療にリハビリ、頑張ってくれ」 「はい。ありがとうございます」 僅かに自分の意志である程度は動くようになった日下部の手だけれど、指先はまだ、力なく軽く握られた状態のまま、動くそぶりが見られない。 「さて、では、あまり名残を惜しんでいてもな。飛行機の便の時間もあるし」 「そうですね…」 「原くんも…見送りに来たいと騒いでいたけれどね。さっき救急車が来たみたいだから、抜けて来られなくなったかな?」 ははは、と笑った光村が、チラリと救急室の方角へ視線を向ける。 「ERでも、頑張っているみたいだよ」 「そうですか。それは良かったです」 「何せこの日下部くんの一番弟子だからね。研修医にしてはかなり使い物になるって、好評らしいよ」 「ははは、それはそれは」 「何科からか、スカウトの話も出ているとか」 「へぇ?あの原が?」 「ふふ、せいぜい他に取られないように、うちからも定期的にラブコールを送っておくよ」 それは…お願いします、と日下部が悪戯っぽく微笑んだ。 「それじゃぁ…」 「はい。そうですね…」 「お元気で」 「光村先生も、スタッフの皆さんも」 ふわりと頭を下げた山岡と日下部が、ピッタリ重なり合う声で、言葉を紡ぐ。 「「今まで、大変お世話になりました。ありがとうございました」」 緩やかに微笑み、顔を持ち上げた2人が、頷き合って視線を交わらせた。 「行こうか、泰佳」 「はぃ、千洋」 にこりと微笑んで歩き出す日下部と、少し恥ずかしそうに小声で頷いた山岡の左手には、揃いのプラチナのリングが光っている。 「はぅ…。本当にいなくなっちゃうのね」 「でも、あの2人が並んで歩く後ろ姿。これよ、これ」 「うん。白衣じゃないけど、白衣の背中が見える気がするわ」 「お揃いのリングに、同じ歩幅。本当、お似合いだなぁ」 よかった、としんみりふんわり微笑む看護師たちの目には、皆一様に、光る雫が滲んでいた。        *   「ちぃっ!」 ざわざわと、雑多な人で混み合う空港ターミナルで。 出発口へ向かう山岡と日下部の後ろ姿に、人混みを掻き分けて近づいてきた人影が見えた。 「え?とら?」 なんでここに、とキョトンとなった日下部の目の前に、ニィッと悪戯な笑みを浮かべた従兄弟様がやってきた。 「ふふん、ちぃらが、今日向こうに発つことも、何時の便に乗るかも把握済みやで。見送りくらいさせえや」 「や、いや、だっておまえ、仕事は?病院は?」 「はっ、そんなん、サクッと有休取ったに決まっとるやん」 水臭い、と口を尖らせる谷野に、日下部が苦笑して、山岡が、「谷野先生、それってサボり…」と困ったように笑っていた。 「なんやねん。だって、おれの悪友兼従兄弟と、親友の門出やねん。おれに黙ってこっそりと旅立とうなんて、おれが許すわけないやろ」 「門出って、俺は向こうにオペを受けに行くだけだぞ?山岡はまぁ、うん、門出かもしれないけど」 呆れたように目を細める日下部に、谷野はニィッと豪快に笑った。 「なにゆうとんねん。ネタは上がっとるんやで。そもそも、その揃いのリング」 「あぁ、これ?」 「ったく、人に散々心配かけて、イライラヤキモキさせておきながら。結局ちぃらは、これやねん」 ほんまやってられへんわ、とケラケラ笑う谷野の目には、ちゃんと祝福の色が宿っていた。 「とら…」 「よかったな、ちぃ」 「っ…」 「ホンマもんの愛、手に入れられて」 「っ、とら…」 「幸せになりぃ。幸せになりぃよ」 父との確執に縛られて、愛を信じられずにいた日下部。そこら中の女を好き放題食い散らかして、愛などこの世に存在しないと冷たく笑っていた日下部。そして、山岡と出会って、何度も何度も与えられる試練をその都度乗り越えて、ようやくここまでたどり着いた日下部。 その全てを、この谷野は見てきたのだ。 「グッドラックやで」 ピッ、と立てた親指を、ぐっと突き出して、にっと笑った谷野の笑顔は、とても眩しかった。 「山岡先生っ…」 そのとき、タタタッとまた、人混みを掻き分けて、新たな人物が駆け寄る。 「はぁっ、間に合った」 「ぇ…川崎さん?」 くるりと目を丸くした山岡を見て、川崎がにこりと微笑んだ。 「今日から海外、行くって聞いて」 「川崎さん…」 「ふふ、また山岡先生が、遠くに行っちゃうなぁ」 「っ、そんな、ことは…」 「うん、でも、山岡先生の信念だもんな」 にかっと笑う川崎の笑顔は明るい。 「はぃ」 「元気でな。頑張って来い」 「はぃっ。川崎さんも、お元気で」 「うん。山岡先生に掬い上げてもらったこの命を、大事に生きていくよ」 ありがとう、と微笑む川崎に、山岡の顔がくしゃりと泣き笑いになった。 「川崎先生は、いつでも、いつまでも、オレの大切な光です。オレこそ、ありがとうございました」 にっこりと、無理矢理笑顔を作り出した山岡に、川崎の拳が突き出される。 コツン…。 それを見た山岡が突き出した拳と拳が優しくぶつかり合い、2人は目を見交わして笑った。 「ええんか、あれ」 「うん。あの2人が過去に重ねた時間の絆を、俺も大切に思うからな」 「ほぉ?ちぃ様にしては、随分と寛大な話やな」 「まぁ、な。かつては嫉妬もしたものだけど。あの人がいたから、今の山岡があって、だからこそ俺は山岡と出会えたんだ」 山岡の恩人なんだよ、と笑う日下部に、谷野が怪訝な表情を浮かべた。 「ちぃの心が広いとか、気持ち悪いんやけど」 「おまえね…。俺を何だと思ってるの?でも、ほら」 「あぁん?」 にっこりと微笑んで、自由に動く左手を掲げて見せた日下部の、その顔がふにゃりとだらしなく緩む。 「もう、誰にも負ける気はしないからね」 ふふふ、と笑い声を漏らす日下部の左手には、キラリと光るプラチナのリング。 「マリッジリングってか」 「ふふふふ」 「挙式も、カナダで挙げるつもりなんやて?」 「山岡には、まだ内緒だよ」 「全く、あのちぃ様が、こないなだらしのう緩み切った顔」 ごちそ〜さまや、と呆れながらも幸せそうに笑う谷野に、日下部はもっともっと輝かしい笑顔を浮かべてみせた。 「山岡、そろそろ」 「ぁ、はぃ…。じゃぁ、川崎さん」 「うん。さようなら」 「っ、はぃ。日下部先生」 「うん、行こうか」 にっこり笑って、近くまで戻ってきた山岡の腰を、エスコートするように抱いて、日下部は踵を返す。 「泰佳」 「千洋…」 ふにゃりと幸せそうに名前を呼び合い、目を見交わして歩いて行く2人の後ろ姿が、出発口に消えていく。 同じ歩幅で、雑踏の中に消えていくその背中を、谷野と川崎は静かに見送った。 キーンと、青く高く澄み渡る空に、次第に小さくなっていく飛行機の姿が、キラリと小さな煌めきに変わる。静かに尾を引く飛行機雲が、ゆっくりと青空に霞んでいった。

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