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「大丈夫か? 落ち着いた?」 「……ぅ、すいません、」  清水先輩は、僕のうわばきを見て、また頭を撫でた。 「1年か。名前は?」 「小平です」 「いままでどこにいたんだ?」 「体育館、4組みんなそこにいたんですけど……ダメで……」  いまさらになって、置いてきてしまったひとたちのことを考え、怖くなった。  震える手で先輩のワイシャツを握りしめると、また涙がこぼれてくる。  先輩は、僕の体をぎゅーっと抱きしめながら、優しい声色で言った。 「大丈夫。お前のせいじゃねえよ。ここまで逃げて来てえらかった。大丈夫」 「えぅ……、う、」 「ここに居れば大丈夫だから。な?」  先輩はスクールバッグを漁り、中から麦茶のペットボトルを取り出した。 「喉乾いたろ。飲め」 「え、でももう半分もない……」 「いいから。水分さえ取っときゃなんとかなる」  僕が遠慮していると、先輩は麦茶を口に含み、僕のあごを掴んで固定してキスしてきた。 「……!? んっ、ぅ……んく、」  カラカラの喉が、ぬるい麦茶で少しうるおう。  先輩はなんでもない表情でキャップを締め、ペットボトルを床に置いた。 「す、すいません。気遣ってもらっちゃって、こんな……」 「何? キスはじめてだった? こんなのファーストキスにカウントすんなよ、今後の人生に支障出る」  なんでそんな、『今後の人生』なんて言えるのかがさっぱり分からなかった。  5秒後にはゾンビに食われているかもしれないのに。  先輩は、僕の頭をくしゃくしゃと撫でて言った。 「出れるよ、絶対。俺たちは助かる」  そう言った瞬間に、ドスンという音が聞こえた。  叫びそうになるのを、すんでのところでこらえる。  息を殺して様子をうかがうと、ゾンビたちは壁にぶつかりながら廊下を進んでいて、でも、この部屋の中に人間がいることには気づいていないようだった。  はくはくと浅く呼吸を繰り返しながら、飛び出そうな心臓を無理やりおさえる。  息が苦しい。  吸っても吸っても酸欠みたいな感じで、パニックになってくる。  過呼吸かもしれない。  異変に気づいたらしい先輩は、再びキスで僕の口をふさいだ。 「ん……っ」  先輩がくちびるを離すのと同時に、息を吸う。吐く。またふさがれる。 「ふ、……は、」 「ゆっくり、落ち着いて」 「……っ、はぁっ、」  過呼吸状態が落ち着くと、先輩は長くキスをして、顔を離した。  死ぬかもしれない緊張と、なんだか分からないキスで、心臓がうるさいくらいに鳴る。 「……いや、そんな顔されると困んだけど」 「えっ、え? ご、ごめんなさい……?」  どんな顔だっただろうかと思いながら、自分の顔をぺたぺたと触る。  先輩は、派手な金髪をがしがしと掻きながら言った。 「ゾンビ、そのうち全部学校から出て行くよ」 「なんで分かるんですか?」 「全員食い尽くしたら出て行くだろ」 「えっ」  目を丸くする僕の頬を両手で挟み、じーっと見てくる。 「俺は、お前さえ食われなければあとはどうでもいい」 「なんでですか? 僕なんて、見ず知らずの後輩なのに」 「こんな特大吊橋効果で、目の前にちっこい可愛いのがいて、ってなったら、好きになっちゃうじゃん」  つりばし……? と一瞬考えて、意味を悟る。  怖いところでドキドキするのを恋愛感情と勘違いして、そのまま好きになっちゃうやつだ。  ……いや、吊橋なんてものじゃない。  相変わらず廊下からはドスンドスンと音がしていて、自分も死ぬんだろうなという気持ちが9割だ。  でも、怖いと思っていたひとが優しくて、抱きしめてくれたりキスしてくれたら……そういうことに免疫がない僕は、ちょっと勘違いをしてしまう。  変かな、とは思った。  けれど、もう死んでしまうのかもしれないし、奇跡的に出られたとしても、世界はゾンビに食い尽くされて終わっているかもしれない。  そう考えると、常識的に変かとかは、どうでもよかった。  僕は、ドキドキしながら、先輩の胸のあたりに頬をくっつけてみた。  先輩の心音が聞こえる。  肌があったかくて、心地よい。 「ん。なんかこれ、ほっとするな」 「はい」 「小平が来てくれてよかったわ。なんだかんだひとりで気ぃ張ってて、軽く諦めそうになってたし」  先輩のスマホは、逃げる際に落として他の生徒に踏まれたせいで、壊れてしまったらしい。  誰にも連絡が取れず、孤独に耐えていた。  僕がこの部屋の外できょろきょろとあたりを見回しているのを見て、先輩はとっさに叫んだらしい。  いま振り返って考えれば自殺行為だったけれど、いまにも泣きそうな僕を入れてやらない理由はなかった、と言っていた。 「ほんと、ひとりだったら、『もういいや、どうせ死ぬし』って気持ちになってたと思う。でもいまは、小平がいるから」  耳元に口づけられて、ドキドキする。  先輩の鼓動も速いのは、同じ気持ちだからだろうか。 「一緒に助かりたいよ、俺は」 「僕もです。足手まといにならないように、頑張るんで、先輩と一緒に生き残りたいです」    そんな感じで数時間じっとしていると、廊下の体当たりする音も、校庭から聞こえていたうめき声も、……助けを求める人の声も、しなくなった。  先輩の言うとおりだった。  きっと、この学校の人間は食い尽くされて、ゾンビたちは街へ出て行ったのかもしれない。 「ちょっと待ってな」  先輩はそう言って慎重に体を起こすと、バリケードの隙間から窓の外を見た。 「見える範囲には、なんもいない」 「……みんなゾンビになって、街に出て行ったってことなんでしょうか」 「かもな」 「それって、死んじゃったってことですか?」 「どうだろ」 「僕たちは助かったけど、街に出られなかったらやっぱり死ぬんじゃないでしょうか」  水も食料もなければ、いずれ死んでしまう。 「先のことはまあいいだろ」  両親の顔が浮かんで、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。  必死で僕を探しているだろうか。  それとももう、ふたりとも……。  秋の澄んだ夜空に、くっきりと光る月が浮かんでいる。  僕たちは立ち上がり、窓際へ移動すると、ぼんやりとそれを眺めた。  僕が窓枠に手をかけ見上げているのを、先輩がバックハグで包んでくれている。  悲しいくらいの静寂。月が綺麗だ。

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