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第1章 王府井大街(ワンフージンダァジェ)
「え、ちょっと、困りますよ。明後日までの契約でしょう。こんなところで突然辞めるっていわれても」
王府井大街 の人ごみのなか、突然耳に飛び込んできた日本語に、上野孝弘はとっさに振り向いていた。
路上でスーツ姿の男二人がなにかもめていた。服装から見て顔が見えているほうが中国人、後ろ姿が日本人だなと見当をつける。
日本人のほうが焦った声を出していて、中国人はうすら笑いを浮かべて、とってつけたように軽く頭を下げていた。
「この後、アテンドがあるのわかってますか? 信用問題ですよ」
「仕方ナイです。わたしも困ってイます。でももう約束した。だからスミマセン」
「ちょっと、王 さん。こんな形で契約終了になると、次からはあなたには仕事をお願いできませんよ」
「あー、そうデスね。でも仕方ナイです。時間ナイので、失礼します。高橋さん、スミマセン」
そう言った男が逃げるように後退すると孝弘の肩にぶつかって、そのまま振り返らずに足早に去っていく。
「いってーな」
つぶやいた日本語を聞きとがめたのか、高橋と呼ばれた男が孝弘に目を向けた。
「すみません、日本の方ですか。大丈夫ですか?」
「いや、いいけど。あんたがぶつかったんじゃないし」
答えながら、孝弘は相手をじろじろ見る。
日本でなら不躾な目線になるだろうが、ここ北京ではそのくらいでは問題にはならない。
人目を引く整った顔立ちの男だった。
くっきりした二重の目にすっきり通った鼻筋。孝弘よりすこし背は低い。スーツを着ていても、全体的に優しげな雰囲気をまとっている。
服装からして駐在員か出張中の会社員なのだろうが、顔だけ見れば学生で通りそうだ。
孝弘の返事に彼は困ったような笑みを返した。
へんなもめごとを見られてバツが悪いのか、そのあいまいな笑みはとても日本人らしかった。
「そうだけど。でもとばっちりでしょう」
「あんまり簡単に謝らないほうがいいよ。日本とは違うんだ、もっと警戒しないと、この国じゃすぐにカモにされるよ」
年上の社会人にいうことでもないだろうが、ついそんなことを口走っていた。
おかしいなと思う。自分はこういうお節介をやくタイプではないはずなのに。
それなのに今も、さりげなく人ごみから彼をかばって、歩道の外れに誘導している。
「ありがとう、気をつけるよ」
孝弘の対応を見て、相手も自然と言葉使いをかえてきた。
外見からきちんとした感じなのかと思ったが、けっこう臨機応変なタイプらしい。
「ところで、きみ観光客じゃないよね、留学生?」
孝弘がうなずくと、目の前の彼はちょっと首をかしげて何か考えこんだ。
その表情がふと変化して、目に力が入ったように見えた。
にこっと親しげに笑いかけてくる笑顔が、さっきのあいまいな微笑みとはまるで違っていて、やたらきれいで孝弘はちょっと驚いた。
「ええと、いまって時間ありますか? 留学してどのくらい? いや、ええと、中国語ってどのくらい話せますか?」
矢継ぎ早にそんなことを訊ねてくる。
孝弘がうろんな表情になったのを見て、彼は名刺入れから名刺を一枚差し出してきた。
学生の孝弘がスーツ姿の大人から名刺なんてもらったことはない。
片手で受け取ると、さっと目を通す。
社名は孝弘も知っている会社のもので、日本語と簡体字で北京市内の住所が載っており、所属は海外事業部中国開発室、高橋祐樹とあった。
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