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「失礼しました。高橋祐樹といいます。そこで見ていたと思うけど、じつは今、契約していた通訳に逃げられてしまって、真剣に困っているんだ。これからお客に会って話をしなきゃいけないことになっていて。もし時間があるなら助けてくれませんか?」 「それってつまり、俺に通訳をしてほしいってこと?」  孝弘の問いに彼はまじめな顔でうなずく。  今日は王府井書店まで買い物に来て、あとはついでに夏服でも見にいこうかと思っていた。つまり急ぎの用ではない。 「時間はあるし、助けてあげたいけど。ちゃんとした通訳なんてしたことない」  駐在員の仕事など学生の自分に手伝えるものなのかと危ぶんだ孝弘に、祐樹はうなずきながらも諦める気はないようで問いを重ねた。 「中国語はどの程度?」 「北京に留学してきて一年ちょっと。HSKでいうなら四級。でも日常会話とか授業はわかっても、仕事の内容とか単語とか知らないから、通訳できるとは思えないんだけど」  漢語水平考試(ハンイーシュイピンカオシ)、通称HSKを知っているかわからなかったが、孝弘がそう告げると、じゅうぶんだよと彼はうなずいた。  HSK三級取得で文系大学の本科生として、五級取得で理系大学に留学できるレベルだから、四級の孝弘の語学力はだいたい理解できたのだろう。 「今日はこれから日本から来たクライアントに北京事情指南というか、ようするに北京案内をする感じなんだ。会議室で資料見ながら会議ってわけではないから、現地事情に詳しい君みたいな人のほうがいいと思う」  それなら何とかなるだろうか。  会議だなんて言われたら、断ったほうがよさそうかと思っていたが。  孝弘がどう答えようかと迷っている間に、彼はさらに言葉をつなぐ。 「しかも王さんが突然辞退したこんな場面に日本人留学生が居あわせるなんて、これはもう君を雇えっていう天の配剤だと思うよ」  にっこり笑って孝弘の目を引き付けておいて、祐樹は優雅に肩をすくめてみせた。 「というか、正直、まったく中国語が話せないうえに北京に赴任してまだ一週間で、北京事情を人に紹介できるほども知らないっていうのが実際のところなんだ。謝礼と食事は出すし、夜までになるから帰りも送っていくよ。人助けのアルバイトだと思って頼まれてくれないかな」  あっさり事情を明かしてみせ、ね?と誘いこむ。  顔に似合わず案外押しが強いんだなと、祐樹のくり出す条件を聞きながら孝弘は驚いていた。  でもまあ、何だかよくわからないが、面白そうだ。  本気で困っているようだし、自分の中国語レベルでいいというなら引き受けてみようか。持ち前の好奇心がむくむく湧いてくる。 「やってもいいよ。役に立てるか、よくわからないけど」  孝弘の言葉に、彼はほっとしたように大きく息をついた。 「よかった。君に引き受けてもらえなかったら、この王府井の大通りで中国語話せる日本人いませんかーって叫ばなきゃいけないかと思ったよ」  さわやかに笑ってそんな冗談をいう。    王子さまのように優しげな見た目より実際にはしたたかで、そのギャップで得するタイプだ。  それをたぶん、自覚もしている。  こういうタイプは侮れないな。  でも興味をひかれた。 「じゃあ、先にすこし打ち合わせしようか。どこか入れる店を知ってるかな? ところで、名前はなに?」 「上野孝弘」  祐樹を連れて人ごみを抜けながら、面白いことになったと孝弘はわくわくしてくるのを感じていた。 注:現在の漢語水平考試験(HSK)はこのシステムではありません。

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