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第13章 立ち聞き
きょうは昼食のとき、前任者がおいていった雑誌や小説がたくさんあるからよかったら持って行ってと祐樹が声をかけてくれた。
5時の定時には祐樹の仕事はまだ終わりそうになかったので、先に事務所を出た孝弘はスーパーで買い物をしてからマンションに来た。もう帰っているだろう。
待ち合わせはマンションの下の売店だったが、予定より早く着いた孝弘は部屋まで上がっていった。祐樹の部屋にはすでに何度も来ていた。
部屋の前まで来て、チャイムを押そうとするとドアが細く開いていた。
玄関のドアのしたにキーホルダーが挟まっている。祐樹の鍵だ。不用心だなと思いながら、それを拾い上げた。
ドアを開いて声をかけようとしたところで、祐樹の声が聞こえて、孝弘はかけようとした声を引っ込めた。
誰か客が来ているのか。
「よかったじゃないですか。希望通りになったんでしょう」
めずらしくいらだったような感じの話し方だった。
いつも落ち着いて穏やかな祐樹が感情を見せる相手ということだろうか。
「何いってんですか、こんな時期に。そんなのつき合いませんよ、もうすぐ辞令が出るはずでしょう」
孝弘にはしたことがない、丁寧語なのにすこし投げやりな感じの、でもそれが許される親密さがにじみ出るような声で。
初めて聞いたその声に、孝弘は思わず息を殺す。
相手の声は聞こえない。どうやら電話で話しているようだ。
立ち聞きなんてよくないとわかっていたが、そこから動くことができなかった。祐樹の声がふだんとまったく違っていたから。
いつものやさしい声ではなく、感情のこもった声。
どんな人を相手にこんな話し方をするんだろう。
「彼女と結婚して帯同して行くべきですよ。ヨーロッパならなおのことでしょう。彼女だってそのつもりでいるのに、別れるなんてありえない」
会社の同僚だろうか。
通話の相手に海外転勤の話が出て結婚を迷っているという相談なのかもしれない。。
「ええ、相性は悪くなかったです。おれは初めてだったって知ってるくせに。でもこれ以上のつき合いを続けるつもりはないですよ」
相性? おれは初めてだった?
「バカなことを。おれは既婚者とはつき合わない主義なんです、知ってるでしょ」
孝弘はちょっと眉を寄せた。
どういう会話だ。通話の相手は男だと思っていたが、何かがかみ合わない。相手は祐樹と彼女を取り合った仲とか、そういう話?
「今はだれもいませんし、探そうとも思ってません。でもあなたとは、もう寝ません。あなたは女性と結婚できるんだから、そうしたほうがいいに決まってる。こんないいチャンスを棒に振るつもりですか」
いらだちを隠さない祐樹の声が、孝弘の耳を通り抜けていく。
あなたとはもう寝ません?
通話相手と?
なんとも不可解な会話だった。
そこからしばらくは混乱しすぎて、祐樹の声もまともに耳に入ってこなかった。電話のやり取りは続いていたが、頭が理解を拒否していた。
あなたは女性と結婚できる? じゃあ高橋さんはできないってことなのか。…つまり女性に興味がないってこと?
急激に心臓がバクバク音を立てはじめる。
いやいや、これは本当にそんな話なのか。もしかしたら、なにか誤解しているのかもしれない。だって相手の声は聞こえないのだ。
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