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「暑かったでしょ、どうぞ」
さきほどの会話などなかったかのように、いつもの穏やかな表情だった。そのまま部屋のドアを開けて、なかに戻ってしまう。
「どうぞ入って。適当に見繕って、気に入ったものは持って行ってかまわないから。前任者もその前の人も片づける時間がないからって、置いて行っちゃったみたいで」
うながされるままリビングにリュックを置いて、玄関脇の部屋に通される。
本棚にぎっしり雑誌や小説がつまっていた。
ぼんやりとそれを眺めて、ああよかったと心の底から思う。本をもらいに来たのだから、本棚を見ていても怪しまれない。
「けっこうあるね」
なんの興味も持てないまま、本の背表紙に目を向ける。
「うん、そうなんだ。好きなの、持って行っていいよ」
いま祐樹の顔を見たら自分が何を言いだすか、孝弘はまったく自信がなかった。
何人かの好みが入り混じっているのか、太宰治、宮部みゆき、村上龍、池波正太郎、東野圭吾とあまりにも統一感のないラインナップ。
吉川英治三国志とドラゴンボール北京語版は勉強のために誰かがそろえたのか。
とにかく無心になろうと本棚を見つめ、背表紙を端から端までひたすら読んで、どうにか気持ちを落ち着かせたところで、部屋着に着替えた祐樹が顔を出した。
「上野くん、辛いの平気だったよね?」
「火鍋 ほどじゃなければね」
案外、ふつうの声が出たことにほっとする。
そういえばと思い出して、買ってきたハイネケンの缶を渡した。きっとすっかりぬるくなっている。
「なに鍋?」
「夏バテ防止にピリ辛にしようかと思って。味噌ベースかしょうゆベースだったらどっちがいい?」
「うーん、きょうはしょうゆかな」
祐樹が用意したのはキャベツとモヤシとニラがたっぷりの水餃子鍋だった。
冷凍の水餃子は孝弘もちょくちょく買っている。インスタントラーメンに一緒に入れて食べるのが好きなのだ。
エアコンをきかせた部屋で、ピリ辛の鍋はビールによく合い、ついつい酒がすすむ。口を開けばよけいなことを言いそうで、孝弘はおいしいとだけ言って何度もおかわりした。
「どうかした? きょう、なんか変だね。悩み事でもある? 仕事が大変?」
ふだんはあれこれと留学生の日常を話して祐樹を笑わせる孝弘が、やけに口数が少ないので祐樹は心配そうに尋ねた。
目を合わせるとおかしなことを口走りそうだ。
孝弘はあわてて首を振って、視線をそらした。
すでに腹いっぱいだったが、豆腐をすくって取り皿に入れる。祐樹がふしぎそうに見ているのはわかったが、どうしても平気な顔をできる気がしなかった。
「仕事は楽しい。会社ってこんなふうなんだって、知らないことばっかですごい楽しいよ。勉強になるっていうか、目標ができるっていうか、学校の勉強とはぜんぜん違ってて」
「そう。だったらよかった」
やさしい声を掛けられているのに、さっきのぞんざいな声を聞いてみたいと思う。
あんな言い方を許される仲って、どんな相手? その人のどこが好き? 何がよかった?
どのくらい好きなんだろう? 別れてあげようと思うくらい? 結婚を勧めるくらい?
……ああやばいな。
気持ちを自覚した途端、思考がどんどん突き進んでいくような気がする。
それがいい方に進むのか悪い方に進むのかがよくわからない。自分の気持ちをどうしたいのかさえつかめなくて、孝弘は途方に暮れた。
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