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 趙英明(ジャオインミン)から電話が来たのは、昼休みで部屋に戻ったときだった。  バイトが終わって以来、連絡をもらったのは初めてだ。もしもしと電話に出るなり、バイト中には一度も聞いたことのない焦った声が聞こえた。 「上野か、高橋さんが倒れた。いま病院にいる。安藤さんと鈴木さんは大連に行って、連絡つかない。上野、すぐ来てほしい。会社、誰もいない」  祐樹が会社で倒れて運ばれたらしい。 「大趙(ダージャオ)、落ち着いて。どこにいるって?」  孝弘は病院名を確認し、それがどこだか分らなかったので場所を訊ねた。ここからタクシーで20分以上はかかるだろう。  とにかくすぐ行くと伝えて電話を切る。  どうしたんだろう、大きな病気じゃなければいいが。  心臓が痛いくらいバクバクしていた。何がどうなったのかはわからないが、とにかく現金が必要だと趙が言ってきたので、部屋に戻って財布に金を足した。  この国では医療費用が高額になりそうな場合、支払い能力がないと分かれば診察もしてもらえない。日本人だからさすがに手持ちがなくても門前払いはないだろうが、手付金があったほうがいい。  タクシーの中で孝弘は深呼吸する。  大丈夫、きっと大したことじゃない。駐在員はストレスでよく胃潰瘍になるって安藤が言っていた。祐樹もちょっとストレスが溜まったんだ、そんな大きな病気じゃない。  イライラしながら流れていく窓の外を見る。 「上野、こっち」  病院の玄関前で、趙英明が足踏みしながら待ち構えていた。 「高橋さんは?」 「今は点滴してる。さっき意識戻った。医者が過労といった。休みが必要。でも私は会社に戻らなくてはならない。上野、高橋さんと一緒にいることはできるか」  ただの過労と聞いてほっと全身から力が抜けた。よかった、いや、顔を見るまでまだ安心できないけれど。 「そうなると思って来たよ」 「安藤さんと鈴木さん、まだ連絡つかない。ホテルに戻ったら伝言聞くと思う」  趙も相当あせったのだろう。いつもは流ちょうな日本語が微妙に片言になっていた。 「わかった。連絡ついたら、俺が付き添いますって言っておいて」 「ああ、ありがとう。悪いが、お金は持ってるか?」  そう訊きながら、趙は手持ちの現金を孝弘に預けた。 「持ってきた。高橋さんのことは大丈夫だから、大趙は会社に戻って」 「ありがとう、上野。あとお願いします。後で連絡するから」 「大丈夫、大趙も気をつけて」  教えられた病室に行くとシャツ姿の祐樹が、袖をまくられて点滴を受けていた。 「上野くん」  孝弘を見て、ばつが悪そうな顔になる。  約2週間ぶりに会う祐樹は、確かにすこしやつれたようだ。頬がこけて目の下には隈ができていて、どことなく病弱な王子様といった風情だ。  それを見たらどうしても我慢できなくなり、孝弘は祐樹を抱きしめた。祐樹が驚いて体をこわばらせたが、孝弘はかまうことなくさらに強く抱き寄せる。  以前にも嗅いだことのあるフレグランスの香りがした。  マジで心配した、とつぶやくと祐樹がちいさな声でごめんねと謝った。  触れあった体から速い心音が伝わってくる。じぶんの心臓の音もきっと聞こえているだろう。しばらくそのままでいたが、やわらかな声で上野くんと声を掛けられ、仕方なく体を離した。 「大趙に呼ばれて来たんだ。もう会社に戻ったけど」 「うん、聞いてる。さっき上野に電話したからって。ごめんね、迷惑かけて」 「迷惑じゃないけどさ。それより大丈夫?」 「毎日暑かったし、でも朝晩はけっこう冷え込んだりして、ちょっと体調悪かっただけ」 「すこし痩せた? あんまり食べてないの?」 「うーん。なんかめんどくさくなって」  うつむいた祐樹は、頼りない子供のようだった。ぽつんぽつんと落ちてくる点滴液をぼんやりと眺めた。病人相手に非難もしづらくて、孝弘はだまって祐樹に付き添った。

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