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「上野くんはずっと北京に?」  あれから、といいそうになったのをかろうじて回避する。  あれからだなんて、自分のなかのこだわりを改めて確認したようで祐樹は動揺する。 「結局、合計四年ほど留学しました。四年目は半分くらい仕事して、残りは国内旅行したり香港に短期留学したり、起業したり。正式にこの仕事を始めて二年半ほど経ちます」  四年間の留学生活でそれなりに人脈もでき、安藤が紹介した駐在員から社内の書類整理や来中する家族の旅行手配、駐在員の研修通訳など何かと仕事が回ってきた。  そのうち通訳のコーディネートをする会社から声がかかったのだと言う。  北京語の需要はここ数年の中国経済の発展とともにうなぎのぼりに伸びていて、現地事情に通じたフットワークの軽い通訳が必要とされる時代になっていた。  孝弘は頼まれれば気軽に仕事を受けた。  仕事熱心というよりは新しい経験が単純に楽しかったのだ。  自分でいいならと片っ端から引き受けていたら、若いが現地事情に詳しく腕がいい通訳だといつのまにか評判になっていたらしい。    腕がいいというのはこの場合、たんに語学レベルのことではない。  中国特有の社会主義と改革開放政策のあいだにある矛盾を飲み込んだ役人対応ができて、本音と建前の交錯するなかを中国人の面子をつぶさず、クライアントの利益も取れるような臨機応変な対応ができるということを指す。  正式に仕事を始めると、中国の政治と経済の矛盾の海のなかを泳ぐように、孝弘は中国と日本を何度も往復することになった。  その落ち着かない生活は孝弘の性格に合ったようで、仕事が楽しいと笑う。  この五年間のことをさらりと話した孝弘に、祐樹は意識して穏やかな声を出した。 「上野くんは行動力があるからね。期待してます」  したたかな中国人ビジネスマンの二枚舌三枚舌に翻弄されても、何事もチャレンジだと面白がれる精神力と、どこか他人事のような冷静さで乗り切る姿が目に見えるようだ。 「ご期待に沿えるよう頑張ります」  孝弘の優等生のほほ笑みと返答にすこし落胆する自分に気づかないふりをしながら、祐樹は冷めたコーヒーを飲む。  渋い苦みが口に残った。

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