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第43話 嵐の前~慧順の思慕~

「ご挨拶をさせていただくのは、初めてかもしれません」  その日、鞍馬の遮那王の堂で弁慶と向き合っているのは、遮那王...ではなく、牛若丸の世話役だった慧順、今は『表』では弁慶を名乗っている。元々、ワケありの武士あがり。保元の乱で父を失い、その遺言によって出家したという。 「私の父は為朝さまの近習でありましたが、為朝さまのご指示で御子さまを北へお逃がしするため、戦列を離れ、私は直ぐに鞍馬の寺に入るように命じられました」  傍らで脇息に凭れて、まじまじと眺める遮那王の眼差しに臆することもなく、じっと端座する様は、如何にも落ち着いて、僧侶らしいというより、やはり武士らしい。 「義朝さまの忘れ形見、牛若丸様のお世話をすることになって、いや人の縁というものは深いものでございます」  苦笑いしつつ、慧順は穏やかに微笑んでいる。 .「それで......俺に何用なんだ?」  訝る弁慶に慧順は、頭を深々と下げた。 「まずは、せんだっての一ノ谷のお礼を申し上げたく.....」 「あぁ...」  弁慶はちらりと横目で遮那王を見た。知らんぷりをする情人に、内心苦笑いをしながら、頭を掻いた。 「俺じゃない。遮那王だ」  慧順の顔が遮那王を向く。 「お前は牛若丸の最期の砦だ。先につまらんことで生命を落とされては困る」  遮那王の口ぶりは素っ気ない。 「牛若丸にとっては、お前は父も同じだからな」  寺の稚児は、僧侶から様々な手解きを受ける。手習い、経典や作法は当然、笛や琵琶などの芸事....房事の手解きも受ける。牛若丸にその全てを教えたのは慧順だった。  だが、慧順は小さく頭を振った。 「牛若丸さま......義経さまを今の義経さまに育て上げられたは、藤原のお館さまにございます」 「秀衞どのか......」  慧順は、頷いた。 「私は、奥州を発ちたいと仰せになる牛若丸さまをとめられなかった.....。そして、鎌倉様のなされ様に牛若丸さまはひどく傷つかれてしまった。全ての罪は、私の至らなさにあります」 「あれが選んだことだ......」  遮那王は深く溜め息をついた。 「それゆえ牛若丸さまは、ある決意を固めておいでになります。」 「決意?」 「詳細は申せませんが、私もそれに殉ずる所存にございますゆえ、......その事、弁慶さまにお許しいただきたく......」 「許す?何をだ?」  首を傾げる弁慶の傍らで、遮那王はピシャリと言った。 「死ぬるは許さん。牛若もお前もだ」 「遮那王さま......」 「つまらぬことを言うておらんで、牛若丸を守りきることを考えよ。何としても奥州に返すのだ。秀衞殿の懐に戻すことに尽力せよ」 「は......」  慧順は、再び頭を下げ、口ごもった。 「それと......」 「なんじゃ?」 「義経さまをお許しいただきたく.....」 「許す?何の事じゃ?」 「静どののこと......」  静どのとは、京で義経が情を通じている白拍子の娘だ。よく仕えていると洩れ聞いている。 「側女のひとりくらいの事、我れに詫びる事ではない」 「は......」 ―そうではない― と慧順は心の中で呟いた。静御前は、よく似ているのだ。遮那王の母、常磐御前に。牛若丸にとっても育ての母ではあるが、義経は愛妾にその面影を追っている。 ―遮那王さまの母君なのに......―  幼い日に、その愛情を受け慈しまれたのは、牛若丸だった。年を経て、その母を奪った、母の愛を奪った自分を牛若丸は責めるようになっていた。が、その面影を恋しく慕わずにはおれない。 ―遮那王さまに申し訳ない.....― と思いながら情を重ねずにはおれない。その事に牛若丸は、義経は苦しんでいる。  しばらく、慧順をじっと見ていた遮那王は言った。  「我れには母などおらぬ。常磐などという者は知らぬ」 「遮那王さま.....」 「我れの父は、母は、鞍馬の魔王尊さまじゃ。人の親などおらぬ」  何かを言いたげな慧順の言葉を制して、弁慶が唸った。 「遮那王には、俺がいる。女なぞ近寄せる必要もない。要らぬ心配などするでないわ」 「弁慶殿.....」  目を走らせると遮那王がこっくりと頷いた。 「お前は牛若丸を守りきることだけを考えろ」  言って、弁慶は早々に慧順を堂から追い払った。 「あれも因果な男よのぅ....」  遮那王は懐手で柱に寄りかかりながら、慧順の後ろ姿に溜め息をついた。 「牛若にどこまでも尽くすか.....」 「成る程、俺と同じという訳か」  弁慶の指が遮那王の顎を掬い上げた。 「否定はせぬな......」  重なる唇の熱にふたりは暫し酔い痴れ、そして、これから始まるであろう嵐の予感を噛み締めた。

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