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第45話 嵐の前~弁慶の祈り~

 慧順が堂を去った後、遮那王に湯浴みをさせ、食事を摂らせて、弁慶は縁に腰を降ろし、紅く色づき始めたもみじ葉を眺めていた。  かつて弁慶には、妻子があった。里から逃れた両親とともに大江山近くの武士の家で下働きをしていた頃のことだ。主人が戦に行くことになり、十代の若者であった弁慶はその供をすることになった。  弁慶の『鬼』の血が目覚めたのは、その戦で初めて人を殺めた時だった。己のが身を守るために遮二無二に振り回した刀が相手を切り裂き、その血飛沫を浴びた時、今まで感じたことの無い血の猛りと高揚をおぼえた。  それから、弁慶はその高揚を求めて戦に自ら身を投じた。妻は血まみれで上機嫌で帰宅する弁慶に次第に恐怖をおぼえ、遂には鮮やかに浮き上がったあの赤い炎の如き痣を見て、叫んだ。 ―鬼や。あんたは鬼やったんや。人や無かった...―  妻の言葉に逆上した弁慶は、妻に切りかかり、激しく泣き出した我が子をも刺し貫いた。  正気に返った時には、手遅れだった。既に事切れた妻と子の亡骸を近くの山へ運び、崖から投げ捨て、出奔した。  野盗に身を落とし、人々を襲って金品を奪い、日々を暮らしていた。  その弁慶を教え諭したのは、ひとりの老僧だった。比叡山の阿闍梨であったその老僧と対峙した時、弁慶はその気に気圧され、一歩たりとも動くことが出来なかった。そして、我れに還り、泣き伏した。弁慶は阿闍梨の弟子になった。  阿闍梨の元で修行を重ねた。が忌まわしい血が鎮まることは無かった。他の僧兵との諍いは絶えず、遂には喧嘩相手の僧兵達を斬り殺してしまった。弁慶は山を逐われた。山を去ることになった時、阿闍梨が弁慶の背に紋様を記した。 ―少しも、その血の呪いが鎮まるように.....―と命賭けで彫った。そして、彫り終わり、病の床に着いた阿闍梨は、弁慶に言った。 『いずれお前の因業を癒し、地獄から救うてくれる者が現れよう。それまで、なんとか自分を抑えて耐えるのじゃ』  血の呪いに苦しむ日々は続いた。ある祈祷師から―千本の刀を集めれば癒される―と聞き、五条の橋で獲物を待ち構えるようになった。そして、遮那王に出逢った。金色の瞳をした異形の美しい魔物に魅せられた。  白すぎるほど白い肌、誘惑に紅く色づいた唇はこの上なく甘く、その肉体は妖艶そのものに弁慶を夢中にさせた。が、弁慶が溺れたのはその淫欲だけではなかった。遮那王と身体を重ねると、不思議と身の内の熱が鎮まった。緩やかな暖かなうねりに包まれ、身も心も解れていく気がした。妖物と知りながら、弓張月が待ち遠しかった。 ―陸奥へ行く―  と言われて、すんなりと従ったのは、その『平安』を失いたく無かったからだった。だが、遮那王に誘われて訪れた奥州で、弁慶は真の己れを知り、その救いの道を得た。 『お前は俺の菩薩だ』 とその肌を掻き抱く度に、遮那王は、その薄紅の唇でくすくすと笑った。 『我れは魔物ぞ。魔王尊の申し子ぞ』  だが、その瞳は決して笑ってはいなかった。深い孤独が金色の闇に眠っていた。弁慶と暮らしを共にするようになり、少しずつ、ほんの少しずつ、その瞳に柔らかな光が宿るようになった。  鎌倉に出入りするようになり、それが再び凍てつくのが、何より辛かった。 ―だから.....―  魔王尊に祈った。鞍馬に戻り、遮那王と肌を重ねた後、密かに魔王殿に赴き、願った。 ―遮那王を救ってくれ。俺が贄となり供物となる。だから、人間に戻してやってくれ―と。    全き人の姿に戻れば、美しく魅惑的な遮那王は多くの愛を得ることができよう。弁慶はひたすら祈った。そして、魔王尊の命ずるままに番った。  遮那王の瞳はまだ金色のままだ。だが、いずれ成すべきことが終わりを迎えた時、祈願は通り、奇跡は為される。弁慶は、心の底で固く信じていた。 「弁慶、何をしている。早う参れ。寒うてかなわぬ」   「おぅ。」  応えて、弁慶は腰を上げた。行き先にどのような地獄が待ち受けていようと、遮那王を抱きしめ暖める。その胸底までも抱きしめて暖めて、人としての幸せを、願いを成就するまで離しはしない。それが、弁慶の生きる全てだった。 ―悔いは、無い―  傾きかけた陽に照り映えて、紅葉が激しく燃えるように揺れていた。

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