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第50話 義経追討~後白河法皇~
数日後、御所に昇殿した頼朝に公卿達は戦々恐々としていた。御簾越しに謁見する当の後白河法皇自身も御簾の内で青ざめて震えていた。
「義経追討の院旨を.....」
と迫られて出さぬわけにはいかなかった。守護-地頭の任命権の奏請も受け入れるより他無かった。
「我れは、また力を失うてしもうた.....」
保元の乱で崇徳上皇を追い、政権を我が手に握ったのも束の間だった。平治の乱の勝利者となった平清盛との諍いにより幽閉され、源氏の挙兵、義経の平家討伐により、再び政権を取り戻した筈だった。が、それは義経と頼朝の決裂により水泡に帰したばかりでなく、なお多くの権限を失った。
「なかなか上手いようにはいかぬものだ.....」
夜更けて、お気に入りの女御の局を訪れた法皇は、双六の駒を片手に嘆息していた。女御は月のもので臥せっているとのことで、新参の女房が盤の前に座っていた。
「大御門ともあろうお方が何を仰せになりますやら......」
女御の側仕えに入ったばかりという女房はじっと法皇を見つめて微笑んだ。慎ましやかで清楚な気を纏いながら、その目許は如何にも妖艶だ。
―伽を命じるのも悪くはない.....―
鬱々とした気をもて余していたが、少しも気が晴れてきた頃合いだった。双六の盤上から女房がつぃ.....と駒をひとつ、手に取った。
「お上にとっては、武士などこの駒のようなものでございましょうに...」
女房の口調が急に冷ややかになった。
「お上のお心はこの賽の目と同じ.....。ころころと変わられて、駒を、武士達を翻弄なされて.....」
責めるようでいて、その口調は如何にも冷たい。法皇はふと、背中に寒いものが走るのを感じて女房の顔を凝視した。
「何を言い出すのだ......」
女房は恥ずかしげに眼を伏せていたが、再び目を上げた時、その眼は金色の光を放っていた。
―さては妖物.....―
法皇はその異容に震え上がった。人を呼ぼうにも声が出ない。腰が抜け、身体が強張って動かない。女房は、すっくと立ち上がるとにんまりと笑って言った。
「そうそう.....お上にお目通りを願い出ていた方が、おいでになりますの.....」
女房の背後の御簾がはらりと上がり、そこには真っ青な面に血のような真っ赤な眼を見開いた頬のげっそりと痩けた男が座っていた。
;「久しぶりよの、雅仁......」
―上皇......―
法皇の額を汗が流れた。目の前にいるのは、紛れもなく讃岐で憤死した異母兄-崇徳上皇だった。
「相も変わらず己のが欲のために人心を弄びおる.....天ももはや許すまいぞ。いや、天が許しても我れが許さぬ...」
血に染まった長い爪が法皇に向かって差し伸ばされ.....法皇は、恐怖のあまり叫び声を上げ、気を失った。
駆けつけてきた侍従に助け起こされた時、そこには亡霊の姿も女房の姿も無かった。女御に問い詰めても、そのような女房はいない...と言う。
―耐え難い眠気に襲われて眠ってはおりましたが...―
恐怖にかられた法皇は、急ぎ上皇の法要を行い、なんとしてもその御霊を慰撫するよう、都の僧侶達に命じた。
「終わったぞ」
朱雀門の外、闇に紛れて待つ弁慶の傍らに遮那王が戻ってきたのは、丑三つも明けかけた頃だった。
「上皇殿はご満足されたか?」
「ああ。懐かしい御所にお戻りあそばされて、感無量であられた」
遮那王はにやり.....と笑い、弁慶の腕に倒れ込んだ。
「大丈夫か?」
「あぁ。.....いささか疲れた。早う帰って寝すまねばな...牛若が心配しておろう」
精根尽き果てた体の遮那王の身体を抱き抱え、弁慶が京洛を北に走り去っていった。底闇の都の片隅で、かの土御門の博士の御霊が、静かに彼らを見送っていた。
―やれ、律儀な化生であることよ.....―
牛の牽かぬ牛車がゆっくりと常世の闇に帰っていったのは、それから間もなくのことだった。
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