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第52話 逃亡~大和路 義経(一)~

 義経と静、そして慧順は難波から淀川を登り、木津川を遡って、大和へ入った。女である静に山越えを強いるのは難しいものがあり、また人の出入りの多い街道をゆくのは危険極まり無かった。  鎌倉の追っ手が何時どこにいるか分からない。  一行は天王寺の僧侶のつてで、商人の運ぶ荷の狭間に身を隠し、極力、夜陰に紛れて舟を進めた。漕手は天王寺の寺従がふたり、交代で漕ぎ、大和の北に至った。 「ここより南に下ったところに興福寺なる寺がございます。しばらくそちらにて御身を休められませ.....とのことにございます」  丁寧に一礼して漕ぎ去っていく寺従達を見送り義経達は、大和路を南へ足を進めた。 「随分と鄙びておるのう.....」  古えの都であった土地は今は行き交う人も少なく、枯れ草ばかりの風に揺れる閑素な道が続く。 「元々、大和は山深い土地にございますゆえ.....」  かのヤマトタケルも山籠れる...と詠んだという。里火に混じって勤行の雲水の列を幾ばくかやり過ごすと目指す興福寺に着いた。 「立派じゃのぅ......」  山門を潜ると荘厳な堂搭伽藍が立ち並ぶ。居並ぶ迎えの僧侶達も凛として清々しい。 「どうぞゆるりと御滞在くざされませ」  恭しく挨拶を述べる管主に義経は深く頭を下げた。古刹の寺社の多くは政事の介入を拒み、独立自尊を保っているが、頼朝の探索に遇えばどのような不利を蒙るかもしれない。その危機を踏まえてなお自分を受け入れてくれた、勇気と懐の深さに感謝せずにはおれなかった。  宿所に充てられた坊に身を休め、ようやっと安堵の息をついた義経は、傾きかけた陽を見つめ、深く息をついた。 ―遮那王さまはご無事だろうか......―  板戸に身を預け、思いを巡らせる義経の元に管主の使いという小坊主がやってきたのは、翌日の早朝、僧侶達が朝の勤行を終えてすぐのことだった。 ―お見せしたいものがございます―  小坊主について、庭先に降り立った義経と慧順を迎えた管主は慇懃な物腰で二人をある小さな堂に導き入れた。  灯明に火を点し、差し出した手の先には、一体の像があった。それは、見慣れた如来でもなく、菩薩でもなく、三面六臂の少年の像だった。 「これは......」  義経は思わず息を呑んだ。細く伸びやかな四肢、優しい面、華奢な肢体.....義経の眼に映るそれは、遮那王そのものだった。 「阿修羅王にございます.....」  阿修羅王は、二億六千万年の長きに渡って帝釈天と戦いなおも決着が着かずにいたものを釈迦如来の説法によって仏法の守護者になった.....と管主は説いた。 「三つの面は、悲しみ、怒り、微笑み.....まさに人の心の移り変わるさまそのものにございます。妹を奪われた悲しみから、怒りに任せて戦い続けた阿修羅王に微笑みを取り戻させたのは、釈迦の御教え。釈迦の諭しによって心の平安を取り戻されたのです」  義経は食い入るように像を見つめ、立ちすくんでいた。慧順には、その眼が何を見ているのか、痛いほどにわかった。 「遮那王さまに、似ておいでになりますな.....」  義経は無言で頷き、はらりと一粒、涙を落とした。そして管主に向かい、震え掠れた声で言った。 「私は......この像のようなお方を知っております。私のために怒り、悲しみ、私に慈愛を持った眼差しで微笑みかけてくれる方を......」  管主は瞬時、驚いたような色を浮かべたが、すぐに和かな面差しで義経に問うた。 「その御方の安否を案じておいでなのですな.....」  荒くれた武士でありながら、自らが追われる身でありながら、なお大切な存在のことを案じている。その清らかな心が如何にも不憫だった。 「あなた様は、数多の戦に身を投じながら、澄んだ眼をなさっている.....。如何にもこの末法の世はお苦しゅうございましょう......」 「僧侶になれ.....と?」  頷く管主に、義経は小さく首を振った。今さら頭を丸めたところで、あの頼朝が赦すとは思えなかった。何より、自分をなんとか奥州に逃がそうと心を砕いている遮那王をひとり危機に晒すわけにはいかない。 「大事なる御方に、奥州に戻り別れを告げることが叶えば、それも考えまするが.....」  今はただ、遮那王の身が案じられてならなかった。 「なれば、この堂にて祈りを.....。いずれ御仏に思いは届きましょう」  管主は、義経が朝夕に阿修羅像に祈りを捧げることのできるよう、管理の僧に申し渡した。 ―遮那王さま......兄上さま.....どうか......―  義経はこの寺に滞在中、欠かす事なく香華を捧げ、一日の殆どをここで過ごした。  十日の後、童が遮那王からの文を携えてきた時、安堵のあまり、慧順の膝に泣き崩れた。  

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