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第53話 逃亡~大和路 遮那王(二)~

 義経が、興福寺にたどり着き、束の間の安穏を得ていたころ、遮那王と弁慶は五條に居た。向かったのは、他所とは少々趣の異なる社だった。  鳥居を潜ると、神社というより、小振りな屋敷のような建屋があり、参る人の姿も殆ど無い。神職も慎ましやかに淡々と日々の祭事を務める以外に、社に立ち入ろうとはしない。 「ここはいったい......」  訝る弁慶に遮那王は、ひそ.....と耳打ちした。 「五條の御霊社だ。......此方の主がお招きゆえな、まかり来した」 「主......?」 「井上(いがみ)皇后さまだ。藤原式家の陰謀で、皇后位を逐われ、御子の他戸親王とともに、この宮で無念の死を遂げられた。それからしばしの間、祟りが続いてな。.....他戸親王を排して皇太子となり、天皇となった桓武帝は祟りを怖れて長岡京に都を移し、また今の山城の平安京に都を移されたのだ」  ほぅ......と弁慶が相槌を打つと、遮那王はあぁ...と思い出したように付け加えた。 「桓武帝の弟、早良親王も無実の罪に落とされ淡路に流される途上で憤死しているから、桓武天皇は二重の怨嗟を受けていることになるな」 「そうなのか.....だが何故、その怨霊が我らを招いたのだ?」 「平家は桓武天皇の子孫だ」 「なるほど.....憎い桓武帝の子孫を滅した褒美というわけか......」  弁慶が唸っていると、社の奥からしゃらん......と鈴の音が聞こえた。  眼を上げると、唐風の衣服をまとった臈長けた婦人が佇んでいた。 ―その通りじゃ......。よう参ったの、魔王の子よ―  頭の中に直接に語りかけてくる柔らかな声音に、弁慶は背筋を凍らせた。 ―たが、桓武が弟を弑したは母親の業。高野新笠の罪というものよ。......渡来の者でありながら己のが子を帝の座に着けるなど、代々の皇親の怒りを買うは至極当然であろう...―  扇を優雅に揺らめかせて、婦人はさも可笑しそうに笑った。   ―聖武帝の第一皇女たるわらわを蔑ろにし、手に掛けたのじゃ。報いを得るは当然のこと。此度のそのほうらの働き.....まことに殊勝であったぞ― 「勿体ないお言葉、痛み入りまする」  遮那王が婦人に対して礼をとり、それに倣って弁慶も頭を下げた。そして、次に頭を上げて見たものは、婦人とその傍らに立つ少年、その周りに控える側仕えの者らしき人々だった。婦人がにこやかに笑んで、言った。 「饗応いたそう、此方へ参れ」  首を巡らせると、がらんとした板張りの拝殿が、豪奢な調度の並ぶ宮の一間に変わり、遮那王は躊躇いなく、婦人の後を付いて足を進めようとしていた。 「し、遮那王、これは.....」  狼狽える弁慶に、遮那王はあぁ...と事も無げに言った。 「此方は異界じゃ。皇后さまは、異界の扉をお開きあそばされて、我らを招いてくだされたのだ」 「異界って.....お前ならわかるが、何故に俺が.....」  踏み込むことが出来るのか、弁慶は絶句した。信じられない......と言った面持ちの弁慶に、遮那王は、ほんの少し顔を赤らめながら、再びこっそり耳打ちした。 ―我れの精を飲精しておるではないか....―  つまりは、遮那王の精を口にすることで、魔王尊の力が弁慶にも流れ込んでいるのだ.....という。  ―それが発するのは、我れの傍におる時だけだが...な。―  遮那王は、そう言いながら、弁慶の袖を引いてすたすたと奥の間に入っていった。  弁慶は遮那王に促されるままに出された料理を口に運び、酒を飲み.....やがて用意された褥に身を横たえた。  未だに信じられない思いでいる弁慶に遮那王がふわりと口づけてきた。 「俺達は、どうなるんだ......?」  驚愕を隠しきれない弁慶の頬を遮那王が手挟み、囁いた。 「どうにもなりはせぬよ。夜明けまで誰の眼を憚ること無く、心おきなく愛し合える。それだけのことじゃ....」  遮那王は妖艶な笑みを浮かべ、その手で既に弁慶の衣の袷いをまさぐっていた。 「良いのか....皇后さまはお怒りにならぬのか?」  異界であっても、不敬にはならぬのか?―と気を揉む弁慶に、くすりと笑って遮那王は探り当てた弁慶の雄を小さな掌に包み込んだ。 「大事無い。皇后さまの有難い御計らいじゃ.....有り難くお受けいたすのじゃ」  その夜は、弁慶はかつて触れるどころか見ることも無かった、上質で柔らかな寝具に身を委ね、遮那王の求むるままに、抱いた。  異界のもてなしは、三日三晩続き、三日目の夜、遮那王の求めを受けて、婦人は何処ぞへ従者を走らせた。しばし後、戻った従者の報告に頷くと、盃を遮那王に進めて言った。 「そちの分け身は、興福寺におるそうじゃ。何処でなりと落ち合うが良い。夜が明けたら、使いを出そう」 「ありがとうございます。それでは橘寺で.....」  婦人はにっこりと笑み、遮那王の注いだ酒を口に運んだ。 「そなたのような美しい男を手放すのは惜しいが、思う事もあろう。いずれまた会おう.....」 「いずれまた....」  遮那王の言葉に婦人は満足気に微笑んだ。 「上宮王家の方々によろしゅう......」  翌朝、目覚めた弁慶は元通りの拝殿にすやすやと寝息をたてる遮那王に、ほっ...と胸を撫で降ろし、宮司が朝の勤めに来る前に、と遮那王を背負って社を出た。 ―橘寺か.....―  やがて遮那王が眼を醒ませば道はわかる。とりあえず背中の温もりと柔らかな呼吸を味わいながら冬間近の大和路をゆっくり歩き出した。  

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