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第54話 逃亡~大和路 橘寺~

「遮那王さま!」  飛鳥の鄙の一画にその蕭洒な寺はあった。静かな佇まいの中に穏やかな時間を過ごしていた義経は、待ちかねていた姿に笑みを溢した。 「待たせたのぅ.....」  にこやかに答える遮那王の表情はいつにも増して静かだった。 「何処においでになっていたのですか.....」  慧順が、そっと弁慶に尋ねた。 「この地に眠る旧き神々のところへ.....」  弁慶は、二十日あまりの間、遮那王が経巡った様々な場所に思いを馳せた。五條を出て遮那王が向かったのは、深い山の中に埋もれたように佇む神社だった。天川、玉置、丹生の川上へとそれぞれ異なる幾つもの異界の扉を開き、宿を乞い何やらを語らっていた。  そして、この地に、飛鳥に辿り着いた。   「此方は、あるお方がお生まれになった所でな......」  遮那王は、音も無く降り始めた粉雪を見つめながら言った。 「あるお方?」 「厩戸皇子と仰せられる....」 「斑鳩の宮の......」 「そうじゃ......」  義経は、興福寺にあった折りに斑鳩の法隆寺に詣でるように伝えられていた。 「そう言えば法隆寺の六角の堂の前で不思議な童に会いました.....」  童は髻(みずら)を結い水干姿で義経を待っていた。そして義経の姿を目にすると、 ―九郎さまにございますね― とにっこりと笑い、懐から玉の環を取り出し、義経に手渡した。 ―遮那王さまにお渡しくださいませ。......子らをお頼み申します.......と主が申しておりました―  そう言って、くるりと踵を返して堂の中に入っていった。名を尋ねようと義経が堂に入ると、誰もおらず、小さな木の仏像が一つ置かれていた。  忍んでの参拝ゆえ、誰かに誰何するわけにもいかず、不思議に思いながらも、足早に興福寺に戻ったのだった。 「こちらにございます......」  義経が取り出したのは、翆玉の環だった。 「これはどのようなものにございますか?」 「古え人が剣を吊るす帯につけていたものじゃ。......現れたは太子の御使いよ」 「太子の?......太子はとうに身罷られておりますのに?」  「この世からはな」  遮那王は、拭紗の上に丁寧に環を置き、包んだ。   「太子は、異能の方であった」 「異能?......でございますか?」 「そうだ。古えの帝は巫覡であったと、以前に言うたであろう?......太子は、その究極であった。古えの人々は、神と呼応することによって政事を成していた。それ故、その能の優れたる者が長となり、世を治めた。世が下るにつれ、この世ごとを治める者と祭祀を司るものが別れたが、元来、天皇とはその祭祀を司る者であり、その詔によって政事が成された」   「でも太子というのでは、即位されておらぬのでは?」 「その通りじゃ。太子は、上宮王家のお方.....つまりは、巫覡の力を保つために旧き帝の血に繋がる者達との婚姻でのみ保たれたお血筋ゆえ、当然、天皇の位に座すべきであった。だが、太子はこの世の政事の改革を強く望まれ、実際に仏教を広めるなど、この世ごとの改革に臨まれた」  遮那王は、こくっ.....と差し出された白湯を一口干して続けた。 「太子は、皇太子として立たれたが、あくまでもこの世ごとを司る執政として在ることを望まれた。最も優れたる巫としての力を持って、この世を変えようとなされた」 「即位なされなかったのは、天皇位に就いては、この世ごとに手を出せなくなる......と?」 「その通りじゃ。それに大陸の仏教を推奨しておる者が、日ノ本の古来の祭祀を司るわけにはいくまい」 「あぁ.....」 と義経は相槌を打った。 「なれど、あの童が言うておった、子ら...というのは?」 「太子の皇子...山背大兄皇子とその妻子、弟君はな.....太子亡き後、間もなく臣の蘇我によって滅されてしもうたのじゃ。」 「え?.....臣が皇子様がたを?」 「蘇我が、自らが操り易い帝を建てるためじゃ。今では珍しいことでは無くなってしもうたがな.....だが、おそらく、そればかりではあるまい」 「と、申されますと.....?」 「上宮王家の血を怖れたのだ。この世ならぬ力はこの世の力によって世を治めようとする者には恐怖だからな......もっとも.....」  ふぅ.....と息をついて、遮那王は白一色に染まった庭を見た。 「蘇我氏は結局、乙亥の変で、皇太子であった天智帝と天武帝、中臣によって誅され、滅ぶことにはなるがな.....」 「しかし、何故、太子さまが遮那王さまに環を?」 「互いに.....この世にいてはならぬ者だからであろう。お子達の弑されたは、ご自身の異能ゆえと、ひどく苦しんでおられた。それ故、図らずも異形に生まれた我れを哀れに思うてくだされたのじゃ」 「いつ、....お会いなされたのですか? 太子に」  眼を丸くする義経に遮那王は、ふふ.....と笑って言った。 「天王寺は、太子の建立された寺ぞ」  あっ.....と義経の口が小さく呟いた。遮那王は、拭紗を取り、義経の手に握らせた。 「これは、お前が持て。無事、陸奥に辿り着くまで、お前を護ってくれよう。.....鎌倉の者達からお前を隠してくれよう」 「兄上は.....遮那王さまは?」  にやり.....と遮那王の唇が歪み、金色の瞳が、爛と輝いた。 「我れは異形ぞ。.....心配はいらぬ」             

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