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第56話 逃亡~ 川上山 足止め~
義経達は、遮那王に促され、多武峰を発った。
―此方は倭媛が杖を置いて身を休ませたところゆえ、御杖という.....―
山合の出で湯に身を浸して、遮那王は義経に説いた。
―これから向かう山は、霊山ゆえな、気を引き締めて参れ。―
一行は、霧の深く立ち込める中を慎重に進んだ。人の気配は消え、獣達の眼がこちらを窺っているのがわかる。
山肌を縫うように進んで行くと、ふ.....と視界が開けた。
「ようこそ、おいでくだされませ。......このような山深い地に何用にございますかな?」
霧の中から静かに語りかける声に、一同はぎょっと身を疎ませた。見ると、鳥居があり、その下に狩衣姿の神主が立っていた。
「安心いたせ。この世の者よ」
遮那王はすす.....と進み出ると、一礼をし、語りかけた。
「我らは旅の者。頼みがあってまかりこした。雀部勘太夫殿、まずは一時休ませてはいただけまいか?」
「ようございますよ。義経さま.....」
一同は、再び身を強張らせたが、神主が手招きし、するりと身をかわすと、一瞬にして霧が晴れ、山肌に設えられた社殿が見えた。傍らには豪々と音を立てて清流が流れていた。
「雲出川にございます。このお山は雲出川の源流にて川上山と呼ばれております」
神主は、変わらず静かに言うと、拝殿の傍らにある庵に一同を案内した。
「参拝の方々がお泊まりになる宿にございます。この地は山深うございますゆえ、皆、一夜を開かしてお帰りになります。正月以外は冬は誰も訪れてはきませぬが...」
「なぜ、このようなところに御社が?」
尋ねる慧順に、神主はにっこりと語り始めた。
「仁徳天皇の御世のことです......」
―仁徳天皇が、女鳥王という美女を側室に迎えようと、甥である隼別皇子を遣いに出したところ、あろうことか女鳥王と隼別皇子が恋仲になってしまった。そればかりか、隼別皇子は女鳥王にそそのかされて謀叛を企て、それが発覚して二人は捕らわれ打ち首となった.....―
「その二人の首が、絡み合うようにして流れ着いたのが、この川上山にございます」
「鎮めの社か.....」
「さようにございます。これにて鎮め、仁徳天皇、磐ノ姫皇后を祀り、お二方が世に仇なさぬよう、抑えてございます」
「磐ノ姫皇后とは、力のある方なのか?」
「お二方を誅した官吏が女鳥王が着けていた見事なる腕輪をまだ女鳥王が息絶えぬうちに盗んで妻に与えたことを知り、激怒して此れを罰した、清廉なるお方。......葛城襲津彦の姫にて、御霊のお力も強うございます」
「成る程......」
皆が、しきりに感心していると、ふと気づいたように神主が言った。
「して、頼み事とは.....」
「『足止めの法』を.....」
「追っ手の方々の足止めにございますな.....」
神主は頷き、施法を承知した。
「良いのか?」
あまりにあっさり受け入れたことに、義経は正直に驚いた。
「鎌倉様がどうあれ、私どもにはあずかり知らぬこと.....私がお仕え申すは、日ノ本の神々にございますゆえ.....」
にっこりと神主は答え、一週間の間、修法を行った。
「ただし、効力は一年にございますぞ」
「充分だ.....だが如何にして礼をすれば良いか.....」
深く謝する義経に、神主は再び涼やかな声で答えた。
「そのお腰の大太刀を伊勢の大御神さまに奉じてくだされませ。貴方様をお護りくだされるよう、御祈願なされませ」
「宮司殿?」
「訳あって本宮を追われましたが、私とて神宮神主にございますれば.....」
「しかし、それでは...」
恐縮する義経に神主が微笑み、言った。
「謝礼は、此方さまから.....」
手を延べられた遮那王は、しれっとした顔で答えた。
「怨霊どもは、我れが鎮めた。此よりは静かになろう......なかなかな手応えであったぞ」
義経が修法を受けている間、遮那王と弁慶は、女鳥王達が招き寄せた怨霊の始末をし、より深く封じていた.....と言う。
―山腹に奥宮があってな、そこを借りた.....―
にやりと笑む遮那王に神主は穏やかな笑みを向けるばかりだった。
―此方は雪が深うございますゆえ.....―
如月の半ばまで滞在し、義経一行は伊勢に向けて旅立った。
「世話になった」
と頭を下げる一行に神主は変わらず穏やかに笑って言った。
「楽しゅうございました。思いがけず賑やかな冬を過ごさせていただき、嬉しゅうございました」
四季がどうあれ、人の通わぬ山奥で魂鎮めにひたすら身を捧げる孤独が束の間、癒された。此ほど嬉しいことはない.....と神主は丁重に一行を送り出した。
「さて......」
伊勢への道の追分に差し掛かったところで、遮那王は、義経をくるりと振り向いて言った。
「我れが同行するはここまでじゃ。」
「遮那王さま?」
「そなたは、伊勢から美濃へ抜け、北国街道をゆけ.....一番安全だ。」
「遮那王さまは、如何がなされるのですか?」
慌てる義経に、遮那王は、にかっ.....と笑い、その頬に触れた。
「我れには、やらねばならないことがある.....静の加勢もしてやらねばな」
金色の眼が、義経の眼をじいっと見つめた。
「次は奥州で会おう。.....それまで無事でおれ、義経」
義経は涙の溜まった眼で、無言で頷いた。
遮那王と弁慶は伊勢から直接に尾張へ向かい、また郎党の佐藤忠信と侍童の五郎丸は、状況をさぐるため.....と京へ引き返した。
「御曹司、どうかご無事で.....」
郷里の妻子に宛てた文と小刀を託して、義経の手を握りしめる忠信の両の眼には涙が滲んでいた。
―生きねば、ならぬ.....―
義経を『生かす』ための戦いに赴くそれぞれの背中に、義経は胸の中で手を合わせ、拳を握りしめた。
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