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第59話 暗躍~遮那王と頼朝~

 鶴岡八幡宮の一件の後、景時の報告を受けた頼朝は予想に違わず苦虫を噛み潰した。 「誠に面目次第もござりませぬ.....」 「よい、下がれ」  ただ逃げられたのではない、政子に阻まれたとなれば、それ以上景時を責めるわけにもいかない。景時が去ったあと、頼朝はひとり私室の几の前で深く溜め息をついた。  政子は頼朝にとって最も御し難い存在であった。政子の献身無くしては、今の頼朝は到底有り得ない。北条氏という政子の背後に控える武士達が頼朝を盛り立て、武家の頭領の地位に押し上げたのだ。だが、それは同時に頼朝の孤独を一層深いものにしていた。側室にと密かに望んでいた亀の前とその子は政子と北条の一族に屋敷を終われ、行き方も知れない。 ―所詮、儂は入り婿。北条の傀儡に過ぎぬ...―  源氏の嫡流、義朝の嫡男と旗印としての役目と同時に、自分の思い描く武家の世を築くという理想を叶えるためには、北条氏の後押しは不可欠だった。 ―だが......―  息苦しさは消えなかった。いや、年々増していくようでさえあった。平家という念願の宿敵を倒し、朝廷を押さえ込み、日ノ本の武家の全てを旗下に治める.....その最後の難敵は『自由な存在』だった。  義経にしろ、奥州の秀衞にしろ、彼らは頼朝よりも遥かに自由だった。おおらかに真っ直ぐに生きてきた。  頼朝の如く、流人として抑圧され蔑まれて、鬱屈した日々を過ごしたことはない。義経に到っては、罪人、逃亡者となってさえ、多くの人間に護られ庇われて、容易に痕跡を掴むことも出来ない。   ―忌々しいことよ.....―  だが、最も忌々しいのは己れに流れる血であり、業だった。頼朝の父、義朝は保元の乱の時、敵方の崇徳上皇に組した己のが父の為義と五人の弟を斬った。後白河法皇と平清盛を始めとする平家に迫られてのことだったが、叔父の為朝が伊豆の島に流罪にされたことを思えば、助命が叶わないわけではなかった。 ―だが、斬った.....―  義経を追う身になって、頼朝は自分の因果に気付いた。源氏の頭領になったその時から骨肉の争いを宿命として受けた。   ―何故だ.....―  平家は、清盛の一族は壇之浦で滅びはしたが、子らが喰らい合うことは無かった。義朝と清盛の負ったものは何が違うのか......。  ふと、頼朝は、最初の挙兵の事を思い出した。敗れて伊豆の山中に身を隠していた時、その洞の奥から響いてきた声を思い出した。 『生きたいか.....勝ちたいか.....世を我がものとしたいか.....』  頼朝は、迷いなくその声に答えた。 『当然じゃ。儂は源氏の嫡男、このような所で死ぬわけにはいかぬ。源氏の世を作るまでは死ねぬ』  その声は畳かけるように言った。 『何を失ってもか......?』 『失うものなど、何も無い』 頼朝は言い切った。生と死の瀬戸際にあったのだ。 『そうか』 それだけで、声は途絶えた。そして探索の手が伸びた時、景時に見つかり、見逃された。 ―あれは何物だったのだ.....―  政子は龍神だと言った。頼朝もそう信じてきた。だが、不意に何やら言いしれぬ違和感が沸き起こってきた。 「成る程、そういう訳か......」  不意に庭先から声がした。松の木の蔭に白い衣が覗いた。 「誰.....」 言いかけて、頼朝は言葉を呑み、言い換えた。 「遮那王か.....」  ふふっ.....と小さく笑う気配がした。頼朝は動揺を押し隠し、そちらに言い掛けた。 「義経と逃げていたのではなかったのか.....?義経は何処におる?」 「生憎だが、我れは牛若の行方など知らぬ。吉野で別れたきりでのぅ.....」 ―やはり、吉野までは一緒であったか.....―  天王寺から吉野を抜けるまでの手引きの巧妙さは大抵なことでは無かった。が遮那王が共にあったとなれば合点がいく。 「なぜ、此方に現れた。儂に従う気になったか」  頼朝の精一杯の威勢を義経は一笑に伏した。 「痴れた事を......。牛若の情婦(おんな)の舞いを見物に参っただけのこと。......何やら我れに用向きな様子であったゆえ、わざわざ出向いてやったのだ」 「無礼な.....疾く此方に参れ。儂自らが縄を掛けてやる」  やにわに仁王立ち、両手を震わせて、だが抑えた声で頼朝は言った。 「縄を掛けるだと?...何故、我れがお前に縄を掛けられねばならぬのだ?」  遮那王は松の蔭から少しだけ面を覗かせた。金色の瞳が頼朝の眼を捉えた。頼朝は怒りに顔を歪め、だがふいに胸が波立つ...のを感じた。声が震えた。 「罪人の義経を庇い、逃がしたではないか!」 「ならば、さっさと斬り捨てればよかろう」  遮那王が不敵に笑う。が頼朝は刀を取ろうとはしなかった。 「斬らぬ」  頼朝は静かに遮那王ににじり寄った。 「お前にはまだ用がある。まずは義経の居どころを吐いてもらわねばならぬ」 「知らぬと言うておろう」    紅い唇が、嗤った。  頼朝は一歩ずつ、遮那王に近付く度に胸の波立ちが大きくなるのを感じた。口の中が渇き、声が掠れた。 「知らぬでも良い。.....だが、此処からは逃さぬ。.....あやつの、義経の処へは行かせぬ」 「痴れた事を.....。我れが何処にあろうと我れの勝手じゃ。そなた、何時より人外まで統べるようになった?」 「なんとでも言え.....」  頼朝が手を伸ばした。細い白い手首を掴み、引き寄せた。その手がかすかに震えていた。 「お前は儂のものじゃ.....義経になどやらぬ」    頼朝は渾身の力を込めて遮那王の身体を松の木に押し付け、唇を重ねた。貪るように、餓えた獣が水を必死に求めるように唾液を吸い上げ、舌で口腔をまさぐった。執拗な、執念の全てを注ぎ入れんとするような口吸いだった。  その狂気のような執着に遮那王が辟易してありったけの霊力で撥ね退けようとした時だった。 「殿、何処におわしまするか?殿?」  政子の声だった。景時に頼朝の不機嫌を告げられ、宥めに来たのだ。一瞬、頼朝が怯み、その手の力が抜けた。 ―しめた....―  瞬時に遮那王は身を翻し、頼朝の手を振り切って闇に消えた。 「殿、何をなされておりますのか?」  やってきた政子に頼朝は不機嫌極まりない声で答えた。 「珍しき蝶が舞い降りたゆえ、捕らえるつもりであったが、逃げられてしもうた.....」 「まあぁ.....それは申し訳の無いことを致しました」  形ばかりの詫びを言う政子にふいと背を向けて頼朝は私室に戻り、板戸を閉めた。   ―逃がしたか.....―  だが、胸の波立ちはなかなか静まらなかった。 ―遮那王.....―  翌朝、頼朝はあらためて、景時に遮那王の探索を命じた。 「義経はいずれ奥州に入る。それより....』 ―あの蝶を捕まえる。今度こそ、わが籠に....な―  だが、遮那王はそれより後、頼朝の近辺に現れることは無かった。 ―頼朝め、結界を張っておったわ―  苦々し気に呟く遮那王を宥めるために弁慶は何度も―浄め―を求められ、三峯のあの庵に三日も足止めする羽目になった。

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