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第68話 山中の密約
弁慶は、大岩の陰の窟から一通り辺りを窺った。比較的なだらかな山の稜線は深い樹叢に覆われ、確かに人の気配は無い。が、おそらく麓には田畑が広がり、邑人達も往き来しているだろう。
「ここは安全なのか?」
ふと弁慶が眉根を寄せると、遮那王はにんまりと笑った。
「神の山じゃからな....普段はそうそう人は来ぬ。それに.......」
桜の花弁のような爪が傍らの紅葉葉を摘まみ上げ、くるくると弄んだ。
「此方を治める常陸源氏は、頼朝の大祖、八幡太郎義家とは別の流れでな。義家の弟、新羅三郎義光の子から出ておる」
「甲斐源氏と同根ではないか?」
「そうだ。だが甲斐源氏と違うて、表面はどうあれ、常陸の源氏は頼朝を棟梁とは認めてはおらぬ.....故に我らや義経の探索には乗り気ではない。見て見ぬふりじゃ」
「なんだと?...そんなことがあるのか?」
眉をひそめた弁慶の背後で聞き覚えのある野太い声が響いた。
―平氏に担がれおる大将など、誰も棟梁とは認めまいよ―
遮那王は溜め息混じりにむくりと身体を起こすと、声の方を睨み付けた。
「出歯亀とは、人に戻った途端に随分と下世話になったのう、将門」
弁慶が首を巡らすと、厳つい顔がニヤニヤと笑っていた。
―辺り構わず、野合をおっ始めようとする方が悪い。もっとも、この筑波峰は、古代からの歌垣の地ゆえ、まぁ無きにしもあらず....か―
「捨て置け。何の用じゃ、怨霊」
弁慶が遮那王を片腕に抱き、刀袋を手にしようとすると、やんわりと遮那王の手がそれを止めた。
「それは使わずとも良い。ヤツはもはやただの死霊よ。纏っていた外法の気を剥いでしもうたゆえな、ただの人の御霊に戻った。まぁ魄は外法のために腐れて散ったが、魂は無事ということは、根っから腐れていたわけではない......ということか」
―言いおるのぅ.....化生が。わしとて私欲のために起った訳ではないわ―
将門の死霊は、半ばむっ......とした様子で言った。
―せっかく、人に戻してくれた礼をしてやろうと思うたに......―
「礼じゃと?」
―お前が気にかけているあの若造。お前の半身の業を解いてやろうというのじゃ―
「解けるのか?」
―解くことは、出来る。一度は死なねばならぬがな―
「死ぬだと?」
遮那王が声を荒げた。
―一度、肉体から魂魄が離れれば、星の呪いも離れる。後にまた戻せばよい―
「戯けたことを......」
刀に手を掛けようとした弁慶を再び遮那王が制した。
「手を貸すか、将門」
―良かろう―
死霊がにんまりと笑った。
「しかして、頼朝が平氏に担がれた大将とは如何なことじゃ?」
―比企も梶原も北条も、元は平家よ。清盛とは異なる流れの......な。―
えっ......と二人は眼を見開いた。
―平氏は源氏より長い。枝葉が多いのは当然であろう。そなたらが、憎き貞盛の嫡流を滅してくれたは快きことだが、その手足となったも平家に変わりはない。北条とて貞盛の裔じゃ―
唖然とする二人に死霊は語った。
―化生よ、そなたは存じておろう。北条は新たなる平氏の棟梁とならんため、源氏の嫡男を抱き込んだのだ。龍の宿りとなったあの男がどう狂うかは知らぬが.....―
「あの男とは頼朝のことか?」
死霊は深く頷いた。
―お前の気にかけている若造は、わしに似ておる。わしの呑んだ苦渋をあやつに呑ませるのは不憫ゆえな.....―
「有り難い。その時が来たら、よろしゅう頼む」
遮那王は頭を下げた。
―その時とな?―
死霊がふっと顔を曇らせた気がした。遮那王はほんの少し唇を歪めた。
「そなた、藤原秀郷の裔にも恨みがあろう。それゆえ、敢えて言う。秀衞が生きている間は、手を出さぬでくれ。.....義経の、牛若丸のために今少し待ってくれ」
将門の死霊は、やや不服そうだったが、合意して消えた。その後に水晶の塊が一つ、転がっていた。
「興が削がれたのぅ......」
弁慶が苦笑いすると、遮那王は、その水晶にぱさりと衣を被せ、弁慶の顔を引き寄せた。
「仕切り直しじゃ。あやつが我らを隠してくれよう.....」
再び草の上に倒れ込むふたりに、水晶の内で将門の魂が―やれやれ....―と溜め息をついていたことを知る者は誰もいなかった。
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