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第74話 奥州帰還~遮那王~

 遮那王が平泉に現れたのは、奥州の遅い春の盛りの頃だった。  秀衞が息子達と義経とともに観桜の宴を催していたその席に、ひとりの白拍子が従者を伴い、舞を納めたいと申し出ていると、家人が伝えに来た。泰衞が許諾し、進み出た美女は、一礼するとするすると舞い始めた。   「何と美麗で妖艶な...都にはこのような佳人がおるのか.....」 「いやいや、都とてもそうはおるまい。どこぞの貴人の娘ごでは...まさか平氏ではあるまいな」  席に居並ぶ者達が褒めそやす中、その美女が誰であるのか、気づいたのは、勿論、義経と慧順、そして秀衞だけだった。そうと知っても、この世ならぬその舞い姿にただ見惚れるばかりの義経達だった。  一差し舞い終えた美女は、扇を収めると、改めて義経の方に視線を向け、口上を述べた。 「これより御目にかけたる舞いは先頃、鎌倉は鶴岡八幡宮にてとある白拍子が奉納したる舞い。生き別れた思い人を慕うも見事なる心映えにて侍所を魅了したと伝え聞いたるものにございます」  再び立ち上がり舞い始めたその舞いと謡いは、義経の愛した女性が、静御前が鶴岡八幡宮の社頭で舞いきったそれだった。 「見事であった。して、その白拍子はその後、如何がなされたのじゃ?」  事の次第を察した秀衞が、舞い終えた美女すなわち遮那王に言葉を掛けた。 「皆さまに天晴れとのお誉めにあずかり、殊に『貞女よ』と北の方様の賞賛一方ならず、大層な進物を頂き、都へ帰られたとのことにございます」 「そうか......」  頷く秀衞の傍らで、舞いを食い入るように見ていた義経の瞳から一粒、滴が零れ落ちた。 ―静、息災であったか.....―  別れた恋人の無事に安堵するとともに、健気なその思いに義経の心が震えた。そして危険を承知で鎌倉に足を運び見届けた遮那王の情け、に心底ありがたいとつくづくと思った。 「舞姫殿は、お名をなんという?」  座の誰かが、問うた。  「鞍馬......と申します」  にっこりと笑って答える遮那王に、秀衞が言った。 「此方におわす公達は、かつては都におられた。懐かしきもお在りになろうゆえ、しばし館にて噺の相手などして差し上げてくれぬか?」 「かしこまりました...」  優雅に頭を下げながら、遮那王も義経の無事にほっと胸を撫でおろしていた。 「息災で何よりじゃ」  秀衞の私邸に誘われた遮那王は、辺りに家人の姿が無いことを確かめて、水干姿のまま、髢を外して胡座になった。  久しぶりに見た義経は長旅で痩せていた体躯も幾分か肉がつき、頬も血色を取り戻して、平泉での暮らしが穏やかであることを窺わせていた。 「遮那王様も、兄上もご無事でようございました」 「心配をかけたな...」  遮那王が静かに笑いかけた。すると義経が床にすり着けるかのように頭を下げた。 「静のこと......ありがとう存じます。兄上のお心も知らず.....」 「よい」  遮那王は苦笑いして、制した。 「天晴れであったぞ。女というのは大したものだな......」 「左様にございますな」 板戸の向こうから低い、響きの良い声がした。秀衞だった。 「秀衞どの...」  ふたりの眼が同時に秀衞を見た。 「遮那王さま、よくぞお戻りあそばされました。どうかごゆるりと......」  慇懃に会釈する 秀衞をちらりと見やって遮那王は口許を微かに歪ませた。 「折角だが、二三日中には早池峰山に参る。為さねばならぬこともあるゆえ.....」  秀衞が我が意を得たり.....と言わんばかりに微笑んだ。 「なれば、遮那王さま、少しお話を......。義経さま、よろしいか?」  義経は頷き、席を外した。  改めて、遮那王の面前に秀衞が腰を降ろした。 「桜が、美しゅうございますな.....」  秀衞が扇で口許を隠しながら語りかけた。 「遮那王さまは、あの桜のようなお方ですな。美しゅうて艶やかで......」 くくっ......と遮那王の喉が笑った。 「......人の屍を糧に咲く花か。」 「いいえ、そのような......」  秀衞の表情は扇の下に隠れて見えない。 「義経をよぅ受け入れてくれた。礼を言う」  遮那王が切り出した。秀衞の眼が僅かに微笑む。 「いいえ.....。よくぞ義経様をお護り下さいました。ご無事でこの奥州にお戻りいただき、安堵いたしました」 「我れが至らなんだゆえ、義経を咎人にしてしもうた。済まんな.....」 「いいえ.....」  秀衞は小さく首を振った。 「義経さまが奥州を出られた時、私の手の届かない彼方に行ってしまわれたかと思うておりました。......どのような形であれ奥州に戻ってきて下されて、ようございました」 「どのような形であれ......か。そなたは余程、義経が、愛しいとみえるのぉ」  遮那王は改めて、奥州の王、藤原氏の惣領の顔を見た。以前より少しも老いてはいたが、その面は何処までも『男』だった。   「お帰りあそばされたからには、この秀衞、生命ある限り、義経さまをお護りいたします」 「そうしてくれ.....」  翌朝、早々に遮那王は早池峰山に発った。   「なんじゃ、もう少し傍に居てやらんでよいのか?」  朝靄の中、名残り惜しげに見送る義経を振り返って弁慶が言った。遮那王は苦笑いしながら、弁慶に耳打ちした。 「良いのじゃ。......此方には秀衞どのがおる。我れは不要じゃ」  遮那王は、昨夜の秀衞の言葉を思い出していた。 ―義経さまは若竹、曲がることが出来ないのは百も承知にございますゆえ、ご安心を.....―  若竹の瑞々しい枝葉が揺れる様をそっと見守るように見つめる秀衞の眼差しは、もはや他の者がその視界を遮ることを望まなかった。 ―次の世があるなら、真の親子に生まれたいものです......―  何気ない義経のその呟きが耳を離れなかった。 「桜.....か」    義経の唇がひそと呟いた。   「ん?」  振り返った弁慶に問う。   「お前は、桜は好きか?」 「好きだ。儚うて美しゅうて、切ないからな.....」   「そうか.....」  彼方を仰いで、遮那王の目が少し微笑った。    

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