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第75話 奥州の落日(一)

 だが、穏やかな日々は、そう長くは続かなかった。秀衞が病に倒れたのだ。   自らの寿命が長くは無いことを悟った秀衞は、息子達を呼び集めた。 「これに......名を.....血判を....」  それは、義経に忠誠を誓い、義経とともに鎌倉と戦うとの誓紙だった。 「これは....」  泰衞は、瞬時躊躇ったが、秀衞の言葉に従い、名残を記すと、親指を少し切り、誓紙に押し付けた。他の兄弟もこれに倣った。    秀衞は、長男、庶子の国衞を残し、他の子らを下がらせた。  私邸を出るおり、弟-忠衞は泰衞に問うた。 「良いのですか、あのような.....」 「よいのだ」  泰衞には、分かっていた。秀衞は気休めでしかないことを承知で誓紙を書かせたのだ。自分の思いを敢えて子供達に知らしめるために......。 ―いずれ鎌倉は、来る......―  義経がいようといまいと、日ノ本の制圧を目の前にした頼朝にとって奥州藤原氏は最大の脅威だ。一時的に平穏な関係を築いたとしても、いずれは『排除』を目論む.....ならば、戦巧者で、源氏の嫡子という旗印はあった方が良い。 ―だが......―  泰衞は顔を曇らせた。 「我らに義経さまと心中せよ......と父は言うのでしょうか?」  今ひとりの弟、通衞が言った。 「違う」  泰衞は短く言った。 ―父は......義経さまをこの奥州と、我らの一族と心中させるおつもりなのだ。―  秀衞はあの誓紙を義経にも見せる筈だ。義経の無事を思うなら、秀衞の死後、義経をこの奥州からより遠くに逃がすことも不可能ではない。十三湊の秀衞の叔父に後事を託して蝦夷に渡らせることも出来る。 ―義経はもはや誰にも渡さぬ.....―  義経が、共に奥州の平泉の土に還ることを秀衞は望んでいるのだ。 ―さて.......如何がしたものか...―  五月雨が降り続いていた。  一方、館に残った国衞を前に、秀衞は一通の書状を取り出した。 「これは.....」 「祈願文じゃ。早池峰山の社に届けて欲しい」  国衞の子のひとりは、早池峰山の神職の座を継いでいた。国衞は長子ではあったが庶子の為、藤原の家督を継ぐことは出来ない。が、末子の頼衞が元服したことを機に、己のが正室を国衞の正室にさせたのだ。  秀衞が正室を迎えたのは三十路近い頃で、嫁いできた妻は十三ばかりの若さだった。既に側女との間に産まれた国衞は妻と幾つも変わらない年だった。 「あれは息災か.....」 「はい、お元気にお過ごしです.....」 「そうか......」  自分に何かあった時に、泰衞の後ろ楯にさせるために与えた妻だが、ことのほか睦まじい様に安堵していた。義経が、秀衞を頼ってきた頃には秀衞は既に独り身だった。 「父上のお世話に、こちらに参らせましょうか?」 「いらぬ。老いた姿など見せとうないわ。それに....」  私邸に留まっている義経が秀衞の側にいた。侍女達の世話の合間に顔を見せ、何かと気遣ってくれる、その時間を邪魔されたくなかった。 「は......」  国衞は、父から預かった祈願文を手に早池峰山に向かった。倅に託し、奥殿に供物とともに捧げさせた。  奥殿には、真の神の使い、遮那王が時折やってくる。その事を知っているのは、秀衞と国衞、息子の神職のみだった。       「これは......」  秀衞の祈願文を開いた遮那王は流石に言葉を失った。そこには、秀衞の願いが血文字で書かれていた。   ―この世に再び生まれ変われるなら、義経と 真の親子となりたい。共に奥州に千年の都を築き、義経がその王となるように.....― 「後生までも離さぬ.....とてか」  義経と奥州に対する秀衞の静かな飽くなき執念に、遮那王はそれをまま神に捧げるより無かった。  その文とは別に早池峰の社の奥殿に一通の文が捧げられていた。 ―遮那王なる方に届くように...― と書かれてた包紙にくるまれたそれは、梶原景時から遣わされた者が力尽きて果てる前に、神頼みに託して逝ったものだった。  遮那王はちらりとそれを一瞥すると窟の隅に放り出した。 「やれ此度は困った文ばかりじゃのう.....」  雨で狩りに行けない弁慶の膝にごろりと横たわり、遮那王は大きな溜め息をついた。 「人の心は測り知れぬ.....」  遮那王の偽らざる本音だった。雨の音が、また大きくなった。  

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