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第77話 月下の密談
鎌倉の梶原景時の屋敷に遮那王が現れたのは、雪の溶けた卯月の夜更けだった。
文机の前に座って書き物をしていた景時は、背後の気配にふと手を止めた。
「遮那王さまにございますか.....」
「いかにも」
聞き覚えのある声音だった。が、それは厳しく景時を制した。
「そのままで......」
ぴたり.....と首筋に刃物の切っ先が当てられた。傍らに今一つの影が跪いている。視線だけを板戸の影に走らせるとかなりの大男だ。が、完全に気配は消えている。相当の手練れであることは容易に察せられた。
「用向きを聞こうか......はるか奥州にまで忍びを遣わしてまで、我れを呼び立てるとは何用だ」
凛と張った声音だった。景時は姿勢を糺し、背後に語りかけた。
「遮那王さま、奥州に義経さま追討の宣旨が出されております」
「存じておる」
「ここから先は私の一存で申し上げます....」
景時は静かに目を伏せ、続けた。
「殿の真の望みは奥州討伐.....であることは、既にお察しのことと存じます」
「義経は口実か」
「左様。それゆえ......」
景時の言葉が一段と低くなった。
「九郎様を何れか遠くに......」
遮那王の口が歪んだ.....のが、声音でわかった。
「頼朝腹心のお前らしく無いことを言う」
「殿、の執事ゆえにございます」
景時は口調を崩さずに続けた。
「ご舎弟さま方を討たれるは、殿のおためになりませぬ」
「舎弟達?......我も範頼どのも射程に入っておるということか」
訝る遮那王に景時は続けた。
「遮那王さまは殿のご舎弟に非ず......殿のご舎弟は義経さま、範頼さま.....にございます」
ふっ、と景時の言葉が途切れた。
「殿にとっても、北条殿にとっても.....」
燭台の灯りがゆらりと揺れた。
「成る程、影で操るはやはり北条の龍か.....」
遮那王の声が不機嫌さを増した。景時は続けた。
「殿ご自身のお考えもありましょうが......ご舎弟さま方を手にかければ、いずれ殿が後悔なされます。.......と同時に、先行きの護りが手薄になりすぎます」
「如何な意味じゃ?」
「和子さま方は、北の方さまのお子ではありませぬ」
これには遮那王は失笑した。政子の子で無いとしても頼朝の子には変わり無い。いくらなんでも、自分の血を引いていないとは言え、鎌倉の跡を継ぐものに手を掛けたりはしないはず......と遮那王は思った。
「いくらなんでも、政子殿はそれほど愚かではあるまい」
「愚かではない......からこそ恐ろしいのです」
景時は言葉を切った。さらり......と衣擦れの音がした。遮那王が背を向けたのだ。
「一年、待て。」
肩越しの抑えた声音が応えた。
「秀衞殿の喪中だ。.....奥州への派兵を一年、抑えよ」
景時は小さく頷いた。そして言葉を投げ掛けた。
「遮那王さま、お話はまだ終わっておりませぬ」
ふん......と鼻で笑う気配がした。
「我れは頼朝には逢わぬ。......おおかた話の聞こえぬように、庭のあちらにでも捕り手を潜ませているのだろう。或いは潜んでいるのは頼朝自身か?」
これ迄とは違う、高く張る蠱惑的な響きを持つ声を庭先に放った。
かさり....と草葉が揺れる微かな音がして、板戸がふいに開け放たれた。
「察しておったか.....」
頼朝だった。口ひげの端が僅かに歪んで、物言いたげに震えていた。
「お前の執念深さは、百も承知じゃ」
遮那王は、頼朝をきっ、と睨むと傍らの大男に目配せをした。途端、大男は遮那王を軽々と担ぎ上げ、刀を振りかざし、頼朝を牽制しつつ庭に降りた。頼朝は遮那王の金色の眼と大男の威勢に威圧され、じりじりと後ずさった。
「奥州へは......行くな。義経の生命が惜しゅうは無いのか?!」
掠れた叫びが頼朝の喉から漏れた。が遮那王は頼朝を一瞥し、言い捨てた。
「何処に行こうと我れの勝手じゃ。化生に脅しは効かぬわ」
その言葉と同時に、大男がそれとは思えぬ身軽さで庭を走り抜け、遮那王の姿は瞬く間に見えなくなった。
「あい済みませぬ.....」
平伏し頭を下げる景時に、頼朝は表情も変えずに応えた。
「良い。.....ああ見えて、遮那王は弟思いじゃ。しばらくは奥州には寄り付くまい。京-大和を見張れ。」
―一年......か―
頼朝はふと、庭先に屈んだ。遮那王の脇差しから外れたのか、小さな飾り紐の淡い紅を月明かりが照らしていた。頼朝は、そ......と懐にそれを仕舞うと、景時を向き直った。
「一年、待ってやれ。......秀衞亡くば、藤原は内から崩れる」
―泰衞は秀衞ほど強くは無い。―
頼朝は月を仰ぎ見ながら、一層臈たけた面差しを思い出し、呟いた。
「あれは、常娥のようじゃのぅ......」
「月精でございますか.....」
景時は平伏したまま答えた。
「儂の見とう無いものまで、晒させおる.....」
溜め息とも嘆息ともつかぬ息が頼朝の口から漏れた。
ウエサクの満月が近づいていた。
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