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第78話 雪融けまで~遮那王~
「次の雪解けまでは頼朝は動かぬ、動かさぬ」
遮那王は、景時との対面後、探索の手を掻い潜り、鞍馬山に戻った。今すぐに奥州に攻め上れるほど、頼朝の周囲は磐石ではない。
おそらくは、朝廷に圧力を掛け、奥州派兵の名目をはっきりと手にしようとするだろう。
遮那王の入京の目的は、その動きを探ることにもあった。
遮那王は鞍馬に着くと、かつて住まいしていた堂宇に身を収めた。鞍馬の奥の院には普通の僧侶は寄り付かない。弁慶は堂前に陣取り、あたりの気配を窺ったが余人の立ち入る気配は無かった。
遮那王は堂内で何やら修法を行っている様子で、時折、上空にばさりばさりと大きな羽根音がした。唐突につむじ風のように頭上で空気が逆巻き、真っ黒な羽根がはらりと落ちてくることもあった。
堂から出てくると遮那王は、それを見て、くくく......と喉を鳴らした。
―太郎坊の羽根じゃ。さしずめお前の顔でも見に来たのであろう―
―俺の?―
―化生の我れに着いて離れぬお前が、余程、興味深いのであろうよ―
弁慶は眉をしかめたが、遮那王は嬉し気に眼を細めていた。
明日は望月...という夜、遮那王は、弁慶を堂に招き入れ、耳打ちした。
―お前もウエサクに魔王殿の中に入って良いと、主さまがお許しくだされた。―
それまでウエサクの満月の深夜に魔王殿に入ることが出来たのは、遮那王ただひとりだった。驚き戸惑う弁慶に、遮那王は、にっこり笑って言った。
―素晴らしき事ぞ―
弁慶は遮那王に言われるままに潔斎を行い、呪法を受け、ウエサクの満月の深夜、共に魔王殿に足を踏み入れた。
―なんと.....―
弁慶は息を呑んだ。
そこは即ち、『異空間』だった。異界に開いた扉はふたりを虚空へと導き入れ、閉じた。遮那王はふふっと笑いながら、燦ざめく星の海の中に立ち竦む弁慶を抱き寄せた。音も重さも無い暗黒の海をふたり抱き合いながら漂った。
伸ばされた白い指先が、彼方にゆるりと流れる光の帯を指差した。
「我れの生まれたは此処よ。......いや、全ての生命は此処より生まれるのだがな.....」
遮那王は、弁慶の胸に身を凭せて呟いた。
「凄いな.....いや、そんなものではない。言葉にならぬな....」
茫然とする弁慶に遮那王はゆったりと微笑んだ。
「お前に見せておきたかった....。叶うなら、義経にも...」
「遮那王?」
弁慶は、遮那王の瞳にうっすらと涙が滲んでいるような気がした。
すると、彼方から低い波打つようなうねりが近寄り、遮那王を引き寄せた。同時に淡い金色の光の繭のようなものが遮那王を包み、慰めるように揺れた。
「主さま......大丈夫です。わかっております.....」
遮那王は、繭に身を預けて頬擦りするようにして囁いていた。気がつくと繭は弁慶の方まで拡大し、弁慶をもすっぽりと包み込んだ。
―これが、魔王尊の本体か.....―
よく見ると淡い光を放つ細かな粒子がひとつの塊のような形を成している。が、それは質量をもたず自在に形も大きさも変化させ、ふたりを中空に抱き抱えるようにゆらゆらと漂っていく。
遮那王は淡い光の柔らかな強弱に身を任せていたが、ふっと弁慶の耳許に唇を寄せた。
「弁慶、済まぬ。あと一年待て。......次のウエサクまで...。さすれば、お前の血の呪いを全て.....」
囁きは少し震えて、思い詰めたような眼差しが弁慶を見つめていた。
「何を言っておるか...」
弁慶は、その肩を抱きしめ、唇を塞いだ。
「俺は、お前の贄で良いと思うていた。だが、有り難いことに魔王尊が番と認めてくだされた。番とは永劫離れぬものではないのか?」
「我れは化生ぞ....」
「ならば俺も化生となる」
「たわけが......」
言いながら、遮那王の腕が弁慶の首を抱きしめた。滴が頬を伝った。繭の淡い光の明滅が大きくなった。
「離しはせぬ。未来永劫、俺はお前の傍にいる...」
頷くように繭が揺れて、ゆっくり振動した。
遮那王の細い腰をしっかりと抱いて、弁慶は眼を閉じた。繭の光の明滅が眼裏に拡がり、繭と遮那王とひとつに溶け合っていく心地がした。叶うなら、無窮の宇宙の中を、ふたりきりで何処までも漂っていたかった。
―遮那王......愛している...永遠に俺はお前のものだ....。―
ふたりの逍遙は夜が明けるまで続き、朝霧の立ち込める中を我れに還った時、二人の肉体は、早池峰山のあの窟にあった。
―化生の特権じゃ―
遮那王は、小さく笑うと弁慶の膝に身を横たえた。
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