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第82話 島渡り
―ここは地獄か、浄土か......―
義経が意識を取り戻した時、まずその眼に入ったのは茫々たる荒海だった。しきりに波が打ち寄せ、岩礁に当たっては、砕ける。同時に自分が簡素な法衣をまとった姿で砂浜に座り込んでいることに、気づいた。
「ここは...どこじゃ?」
茫然とする義経の背後から聞き覚えのある声が含み笑いとともに聞こえた。
「蝦夷じゃ」
咄嗟に弾かれたように振り向くと、そこには金色の眼が微笑んでいた。
「遮那王兄上.....」
呼び掛けると、ふっとその面が寂しそうに歪んだ。
「もはや我れは、お前の兄ではない」
「えっ?」
金色の眼は淡々と告げた。
「お前はもぅ義経ではない。義経は衣川で死んだ。.....お前はこれより別な生を生きるのじゃ。」
「死ん...だ?」
首筋に触れると、僅かに盛り上がった傷跡が、自害の痕跡を残している。
「別な......生?」
「そうじゃ。今頃、頼朝の元にお前の、義経の首が届いているはずだ」
「私の首....?」
義経は思わず眼を丸くした。頭は間違いなく胴の上に乗っている。クスクス......と金色の眼が笑った。
「泰衞どのが、頃合いの首を算段されてな。頼朝に送った。まともに合わせたことも無い顔じゃ。それなりに似ていれば充分であろう」
金色の眼は、ふっと真剣な顔になって言った。
「我れは、お前に『生きよ』と言うたはずじゃ。勝手に死ぬるは、許さぬ」
「遮那王さま.....」
言い掛けて、義経は、はっ.....と辺りを見回した。
「慧順さまは...」
「亡くなられた。お前の首を取らせぬ為に、館の前に踏ん張ってそのまま.....な」
「そう.....ですか」
いつも穏やかで優しかった姿が眼に浮かんだ。幼い頃からひたすらに見守り、力付けてくれた柔和な眼差しが眼裏に揺れて、滲んで....消えた。
―慧順さま.....―
義経は、喪われたものの大きさに初めて気づいた。激しく胸が傷み、俯いて砂を握りしめた。さらさらと指の間から零れるそれを必死に掻き寄せて、泣いた。
しばらくの後、項垂れる義経を叱咤するように、遮那王は義経の肩を掴み、強い声音で告げた。
「.しっかりせぬか。.....お前に預けるものがある」
傍らに控えていた大男が、懐に抱えていた幼子を義経に差し出した。
「ととさま.....?」
幼子は、つぶらな瞳が義経をじっと見つめ、たどたどしい口調で呼び掛けた。
「そうじゃ。お前のととさまじゃぞ、太郎...」
義経の両眼がこれまでに無いほど見開かれた。
「この子は....?!」
「お前の子だ。静が産んだ。男の子じゃ」
白磁の面がゆっくりと頷いた。義経は砂の上をよちよちと走り寄る幼子を抱きしめた。暖かかった。
「ととさま、泣いてる?」
心配そうに覗き込む幼子に、義経は不器用に笑い掛けた。
「波しぶきが、かかっただけじゃ。泣いてなど...おらぬ」
小さな手が、義経の頬に触れた。義経は、今ひとつの気掛かりを口にした。
「静は...?」
「息災じゃ。......お前と一緒に死ねなかった自分には、もう会う資格は無いと言うてな.....」
―此方にて、命果てるまで、義経のご無事と姫さまとお方さまのご冥福をお祈りします―
そう言って、遮那王に一差しの扇を託した。
鶴岡八幡宮で頼朝の面前で舞った、頼朝に挑んだ、あの扇だった。
白い指が東の方を指した。遥かに草木が繁っているのが見えた。
「まっすぐに行けば集落がある。穏やかな者達だ」
「し、しかし......」
自分の思いを言い出せない義経に遮那王がぴしゃりと言った。
「夢で会わなんだか?秀衞どのは今少し待ってくれると約束した。必ずお前と親子にする。奥州に生まれ変わると約束してな」
「まことでございますか.....?」
意識を失い、暗闇を漂っている時、義経は秀衞の姿を見た。それは義経が知っているより遥かに若く、だが変わらず優しい腕で義経を抱擁した。耳の底に低い心地好い声が、甦る。
―今少し、お留まりなされ。......私は二世の誓いを信じて、何時までも待ちまするゆえ....―
義経は、自分が着ている法衣が秀衞の形見のそれであることに気づいた。やれやれ....と唇の端を上げて、遮那王が言った。
「さて、我らはこれで去ぬる。達者で暮らせよ」
「去ぬるとは.....何処へ参られますのか?」
義経は幼子を片腕に抱いて、華奢な背中に呼び掛けた。
「お前の仇討ちじゃ。.....我らは化生ゆえな。鎌倉殿の御霊を喰らいにいく。.....あぁ、井上皇后さまに、よぅ礼を申しておけ。実に健やかにお育てくだされた」
振り返りざまに形の良い口許がにかっと笑った。義経は、再度呼び掛けた。
「兄上.....せめて、この子にお名を.....」
「兄ではないというに.....」
遮那王は今一度振り返り、ふぅ......と軽く息をついた。幼子と義経を優しい眼差しが交互に見つめ、美しい声が答えた。
「太郎顕経....とでも」
「太郎...顕経.....」
義経が口の中で繰り返している間に、金色の瞳の兄は、傍らの大男と目配せをした。
「弁慶、行くぞ」
振り切るように、すっくと背を立てると遮那王の紅い唇が何やら唱え始めた。
「遮那王さま....!」
砂が高く舞い上がり、義経の視界を覆った。咄嗟に眼を瞑った義経が次に目を開いた時には二人の姿は何処にも無かった。
ただ、砂の上に、一本の笛と脇差しが、残されていた。父、義朝の形見の笛。それと、慧順が腰に携えていたそれだった。
「遮那王.....兄上.....」
義経は笛と脇差しを握りしめ、我が子を抱いて、いつまでも彼方の空の蒼を見つめていた。
此れより後、源義経の行方は誰も知らない。
多くは衣川で命を絶ったものと伝えられ、その悲運の生涯に誰もが涙した。
その頃、蝦夷の地では、何処からともなく幼子を抱いて現れた男が、数々の武勇を成し、集落の長となり英雄と呼ばれるようになった...らしい。
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