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第83話 遮那王の懊悩(一)~冥王~

「お前には済まぬことをしてしもうた.....」  義経を蝦夷に送り届けた後、早池峰山の窟に戻った遮那王は弁慶に深く頭を下げた。 ―――――――――――――  衣川の館で自害を図った義経は、遮那王が駆けつけた時既に虫の息だった。夥しい血を流して横たわる義経を抱き上げ、泣き崩れる遮那王はもはや半狂乱に近かった。   弁慶は天を仰ぎ、渾身の力を込めて叫んだ。 ↽早池峰山の神よ!父祖の神よ!俺達を、義経を助けてくれ!↽  弁慶の内で、何かが弾けた。次の瞬間、眩しい光が空間を切り裂き、三人を包み込んだ。弁慶は、いや遮那王ですらそのとてつもない光輝に眩暈し、意識を失った。  気がついた時には、皆、早池峰の窟に倒れ伏していた。   「遮那王!おい、しっかりしろ!」  弁慶は傍らに横たわる遮那王の両肩を掴み、揺さぶり起こした。遮那王は気怠げに瞼を開き、ぼぅ.....とした眼で弁慶を見た。 「ここは...?」 「早池峰の窟だ。戻ったのだ」  我れに還り辺りを見回す遮那王の視界に、白蝋のように血の気を失った義経の姿が飛び込んできた。 「.....義経!」  遮那王は転ぶように駆け寄り、義経を抱き起こした。その表情がふいに強張り、くるりと振り向いたその唇が震えていた。    「どうした、遮那王?」  にじり寄る弁慶に、遮那王の上擦った声が叫んだ。 「傷が.....頚の傷が塞がっておる!」  義経の鎧を剥ぎ取り、胸元に耳を押し立てると、とくん...とくん.....と弱々しいが鼓動を刻む音がする。口元から、僅かだが呼吸を繋ぐ空気の揺れが確かめられた。 「生きておる.....義経が、生きておるのじゃ!」  遮那王は顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を溢しながら、義経の血の気を失った頬を何度も何度も撫でた。 「義経......義経.....生きておるのじゃな!」 「良かったのう.....遮那王」    弁慶の声にくるりと振り向いた遮那王は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を弁慶の胸元に押し付け、泣きながら、何度も頷いた。弁慶は幼子をあやすように、大きな手で、何度も震える背中を撫でた。  だが......、何日経っても、義経は一向に眼を覚まさなかった。一月が過ぎ、二月が過ぎても、義経はこんこんと眠り続けていた。 「何故じゃ......。何故、眼を醒まさぬ、義経」  涙を浮かべながら、義経の頬を撫でては、嗚咽する遮那王の後ろ姿に弁慶も胸を裂かれる思いで過ごす日々が続いた。  そして.... ―魂魄が離れたままなのだ。戻さねば意識は戻らぬ.....―  あまりの乱れ様に痺れを切らした将門の霊が弁慶の夢枕に立って告げた。 ―どうやって戻すのだ?―  尋ねる弁慶に、将門の霊が溜め息混じりに言った。   ―儂は武士じゃ。そのようなことは知らぬ。だが、あの男なら知っていようぞ― ―あの男?― ―参議篁じゃ.....―  冥府の補佐官、小野篁ならば確かに知っているかもしれない。弁慶に義経を託し、遮那王は京の都、六道の辻へ疾った。  が、戻った遮那王の顔は思いのほか暗かった。  ―どうであった...?― と尋ねる弁慶に、遮那王は何やら上の空で―うむ...―と頷いただけで、義経の傍らに座り込み、その眠ったままの面差しを見つめていた。 「遮那王、如何がしたのじゃ。はっきりと申せ!」  弁慶は、二刻経っても三刻経っても彫像のように身を強張らせたまま、押し黙って座り込んでいる遮那王に業を煮やし、華奢な肩を掴んで、自分の方を向かせた。  金色の瞳が虚ろに揺れ、弁慶の視線から逃れるように伏せられた。  「あ奴め、我れの足元を見おった......」  弁慶に強硬に迫られ、遮那王は渋々と口を開いた。  小野篁とともに冥府に降りた遮那王が玻璃の鏡の内に見せられたのは、暗い闇の中をさ迷う義経の姿だった。 ―誰を探しているのか、お前は知っておろう...―  それでなくてもでかい眼を剥いて閻魔大王は遮那王を見据えて言った。 ―秀衞どのか.....―  閻魔は厳つい顔をぐいと義経に近寄せた。 ―秀衞は近くにおる。だが姿を見せぬ― ―何故に.....― ―会えば離れ難くなる。義経に生きて欲しい.....とあれも願っておるから、姿を見せぬのだ―  遮那王は深く溜め息をついた。そして眼前に威厳を持って座す冥王に問うた。 ―どうすれば、義経の魂魄を現世に戻せる?―  冥王は、ふむ.....と長く黒い髭を撫でて言った。 ―不思議な事に、魂の緒はまだ切れてはおらぬ。......が、義経めの運命は終わっている。現世に戻したいのなら、運命を書き直さねばならぬ―   ―ならば、書き直せ― と詰め寄る遮那王を冥王はじろりと睨んだ。 ―人の世の則を違える行為ぞ。そう簡単に出来るものか― ―ならば、どうすれば良いのだ...どうすれば、義経の運命を書き直してくれるのだ!―  必死に取り縋る義経に冥王は厳かに言った。   ―お前が外法の為に鏡に集めた魂を返せ。お前がお前の男の業を消す為に千の魂を集めんとしているのは知っておるぞ。だが、それは世の理に叛くことだ。大人しゅう鏡を差し出し、集めた魂を返すなら、義経の運命を書き直して現世に戻してやろう― ―そ.....それは....―  遮那王は返事に窮した。弁慶を人に戻すために必死に集めた魂だ。自分を受け止め、受け入れてくれた男に遮那王が誓った約束だ。 ―戻さぬなら、義経の魂はこのままぞ....―  威圧する冥王に遮那王は青ざめて立ち竦むばかりだった。その様を冥王の傍らに立って見ていた小野篁が、冥王に何やら耳打ちした。  冥王は不服そうな素振りではあったが、頷き改めて遮那王に言った。 ―すぐに答えられぬなら、朔まで待ってやろう。朔の夜にこの篁を遣わす。鏡を渡せば義経の運命を書き直してやる。渡さねば、魂の緒を切る― ―魂の緒を!?...何故...― ―あのままでは義経が不憫であろう。そうは思わぬか?―  玻璃の鏡には、とぼとぼと肩を落としてさ迷う義経の寂しげな様が変わらず映し出されていた。 ―わかった.....―  遮那王はそれ以上為す術も無く、ひとり早池峰に戻ってきたのだ。 「朔まで....あと二日しか無い...」  遮那王は恨めし気に糸のような眉月を見上げた。        

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