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第84話 遮那王の懊悩(二)~弁慶の選択~
何も成す術もなく、瞬く間に二日が過ぎた。
月も無い暗闇に、炉の焔がちろちろと赤く揺れる中、冥王の使いはやってきた。
『お心は決まりましたか......』
闇の中から涌き出るようにして衣冠束帯が現れ、遮那王と義経とを交互に見た。
弁慶は俯いて項垂れる遮那王を背中越しに抱きしめた。絹のような黒髪に鼻先を埋めて、囁く。
「.....冥王に鏡を渡せば良い」
ぴくり...と、遮那王の細い肩が震えた。金色の眼が怯えた小鹿のように、弁慶を見上げた。
「鏡を渡せば、義経は生き返るのだろう?」
「駄目だ!駄目だ、そんなことをしたら....」
遮那王が大きく頭を振った。
「お前が......。弁慶、お前が人に戻れなくなる。.....我れはお前を呪から解放すると約束した。人として普通に生きられるようにすると誓った。魔王尊様にも祈願した」
細い喉が絞り出す咽ぶような遮那王の声音が弁慶の胸を抉った。
「俺は、戻れなくても良い」
弁慶は静かに言った。
「駄目だ、そんな事は....!」
奔放に甘え縋りながら、いつかは来るであろう『その時』を覚悟してきた。
―元々、我れは独りきりじゃ.....―
ぶ厚い胸に抱かれながら、大きな掌の暖かさに包まれながら、後朝の静寂の中で自分に言い聞かせてきた。
―事が成れば、弁慶は人に戻る。我れとは違うのだ―
温もりを愛を求めながら、預かり知らぬ宿業故に人々と遠く隔たり、謂れの無い苦痛に耐えねばならなかった。その心の痛みを隠したまま、人の親の愛すら知らない自分をずっと暖めてくれた。.....遮那王には、その愛に甘えて自分を見失う事は出来なかった。
「我れはお前を人に戻したいのじゃ。人に戻して幸せに....!」
化生として生まれ、望んでも人間になることの出来ない遮那王の、必死の叫びだった。
だが、弁慶はその唇にそっと口づけて、穏やかに微笑んだ。
「俺は、お前とこうしておれれば良い。遮那王、お前といられれば、俺は幸せなのだ」
「弁慶.....!」
「鏡は渡してやれ。......俺の父祖達を慰める術は他にもあろう」
遮那王はその腕に埋もれて、こくり......と頷いた。
『賢明ですな。.....大王様とて無慈悲な方ではございませぬ。義経殿に幸福な余生を考えておいでです。この子にも.....』
言って、冥王の使いは、袍の後ろに隠れていた幼子を遮那王の方へ導いた。見覚えのある、愛嬌のある男の子だ。
「その子は....」
『井上皇后さまに託されました義経どのお子。...大王さまのご指示でお連れ申しました』
つぶらな瞳が二つ、遮那王を見つめていた。
遮那王はふらふらと立ち上がり、壁際に祀っていた鏡を手に取った。
首を巡らせると、弁慶が深く頷いた。よろよろと篁のほうに歩み寄り、鏡を手渡した。
『確かに.....よくぞご決心なさいました。』
冥王の使いは、鏡を懐にしまうと、眠ったきりの義経の胸に杓を当て、ぶつぶつと何か唱え、とんとん...と義経の胸を軽く叩いた。
『これで良し...』
ふうわりと立ち上がり、冥王の使いはふたりに笑いかけた。見れば義経の頬にわずかながら赤みが差し、呼吸がしっかりしてきた。
「義経;.....!」
遮那王が転ぶように義経に取り縋がった。
『魂魄は体に戻りました。間もなく意識も戻りましょう。どこか安全な場所へお連れなさるが良い......そう蝦夷とか....』
粛々と告げて立ち去ろうとする冥王の使いに、弁慶が声をかけた。
「篁どの...」
どすどすと歩み寄り、何か耳打ちをする。
冥官-篁は非常に驚いた顔をした。が、恭しく礼をして再び姿を消した。
『やってみましょう.....』
―――――――――
「で、あの時、お前は何を言ったんだ?」
義経と子を無事に蝦夷に送り届け、早池峰山に戻った遮那王は、恐る恐る弁慶に訊いた。もしかしたら、他にも呪を解く術があるのかもしれない。
―そうすれば、弁慶は人に戻れる。里に降りて静かに暮らすことも出来る。そうしたら....―
『別れ』という言葉が義経の頭を過り、胸がきゅん...と傷んだ。
「教えて....くれぬか?」
遮那王は、弁慶を見つめ息を殺した。
弁慶は躊躇いながら、ほんの少しはにかんで言った。
「お前と同じにして欲しい、と頼んだ。.....お前と永劫、共にあれるように.....」
遮那王は眼を剥き、次に食らいつくようにして言った。
「共に....って、我れは化生ぞ?」
「だから、俺も同じ『化生』になりたいと言うた....人間の『陰魂(おに)』ではなく、本当の『鬼』に」
「馬鹿な......!」
義経は絶句した。弁慶は微笑して、囁いた。
「言うたでらあろう、お前と永劫、共に在ることが、俺の幸せなのだ.....」
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