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第87話 夢の跡(三)~頼朝、逝く~

 奥州での戦の後、藤原氏の残党の探索という名目で大がかりな山狩りが行われた。勿論、目的は遮那王の探索だった。鎌倉の手は早池峰山にも及んだが、山は深い霧に閉ざされ、一歩も入ることが出来なかった。  土地の者達は皆一様に畏れ戦き、案内を拒んだ。  業を煮やした鎌倉方の大将景時は、里宮の宮司―国衞の息子に訳を訪ねた。 ―この御山は、鬼神の棲まう山にてございますれば.....―  丁重に頭を下げる宮司の様に、景時は遮那王の所在を悟った。がそれ以上踏み込むことは諦めた。  その代わり、―早池峰の神へ―と、景時自らの名で事あるごとに供物と願文を奉納するようになった。  宮に宛てた多額な金子の他に、小袖や反物、香木や香枦、珍しい大陸の器もあった。  そして、そこに添えられた願文は、祈願文ではなく、京や鎌倉の動静を伝えるものであり、末尾には必ず、 ―我が主に早池峰山の神が顕現なされますよう― との一文が記されていた。 「景時め、我らがこの山におることを知ったらしいの.....」  当初は、遮那王も弁慶も神経を尖らせて警戒していたが、月日の経つうちに、強引に立ち入っては来ないらしいことを確信した。  理由は景時の文にあった。日ノ本の武士を束ねる為に頼朝が新しい組織づくりを始めたこと、朝廷を膝下に抑え込んだこと...そして、富士の巻き狩の際に曽我五郎十郎なる者が工藤某という仇を討つために幕内に入り込み、騒動になったことなどが事細かに記されていた。  しかも、その曽我兄弟の片方が義経の愛刀を帯びて、頼朝の生命を狙った....などということまで、記されていた。 「真に神に捧げる文ならこのような事など書きはすまい」  遮那王は呆れたように呟きながら、供物に捧げられた干菓子を口に運ぶのだ。  弁慶は再三、―毒は入っておらぬか?―と心配したものだが、遮那王はからからと笑って返してきた。    「化生の我れに毒など効くものか、それに頼朝には我れは殺せぬ」 「何故だ?」  と首を傾げる弁慶への遮那王の答えはもっと意外なものだった。   「我れは、あれの真の姿を知っている.....」  義経の今ひとりの兄、範頼をも謀叛の疑いで閉じ込め、誅殺した。頼朝の冷えきった心が垣間見えるような行いを綴った文が続いた。  が、八年目に届いた文に義経は眉をひそめた。頼朝の十八才の娘が病気で亡くなった....という。遮那王は訝し気に首をひねった。 「我れは何もしてはおらぬぞ....」  が、翌年に更に想定外な事態が起こった。 供物に添えられていた文に、遮那王は愕然とした。 ―頼朝と伊東氏の娘との間に産まれた息子が何者かに殺された。危急で頼みたいことがある。何としても鎌倉まで来てほしい―というものだった。 「なんじゃ、あやつは!我れを何だと思っておるのじゃ!?」  供物には路銀と鎌倉に入るための手形まで、二人分が添えられていた。 「いったい何だというんだ.....」 ―罠か?―とも思った。が、今さらなんの罠を掛けるというのだ。 ―義経はもういない―のだ。藤原氏も滅びた。奥州には、遮那王を罠に掛けてまで引きずり出す理由が存在しないのだ。 「仕方ない.....」  遮那王は、溜め息混じりに重い腰を上げた。 「恨み事のひとつでも言ってやるか....」 ――.――――――――    遮那王達は、手形を懐に入れ、夜陰に紛れて鎌倉へ飛んだ。  先例であれば....と訪れた景時の屋敷には、頼朝はいなかった。  遮那王の姿を見留めた景時が走り寄り、いきなり地面に跪いた。 「間に合って、ようございました...」  見れば、その顔はひどく青ざめている。 「殿は、お館におります。私が案内しますゆえ、さ、早う.....」  異様に慌ただしく切羽詰まった様は確かに尋常とは思えなかった。遮那王は妙な胸騒ぎを覚え、景時に問うた。 「落ち着け景時。なんの用だ」 「殿が馬から落ちられて.....ご容態が危ういのです」 ―ますますもってわからん...―    そもそも武家の棟梁が落馬などする筈が無い。  遮那王は景時に誘われるままに、頼朝の館に向かった。  木戸を潜ると、寝所にほんのりと明かりが灯っているのが見えた。 「北の方さまは、今宵は文覚上人の寺にてご祈祷なされておりますゆえ、こちらには参りませぬ」  景時は、それだけ言うと姿を消した。  遮那王は、辺りを窺いながら、寝所の御簾に近寄った。 「誰じゃ.....」  中から誰何する声がした。か細く力の無い声だが、頼朝の声に間違いなかった。遮那王の中に瞬時、躊躇いが発した。が、それを振り切り足を進めた。背後には弁慶が控えている。狼藉に及べば、弁慶が容赦なく力を奮う。   遮那王は、するりと御簾の中に入った。   「我れじゃ。遮那王じゃ。お前が呼んだのであろう」 「遮.....那...王!?」  ぴくりと頼朝の身体が震え、目が開いた。  遮那王は愕然とした。薄暗い灯明の下とは言え、肌が異様に変色し、紫色を帯びている。 「頼朝、お前.....毒を盛られたのか?」  浮腫んだ顔が僅かに頷いた。 「誰だ。景時か?」  乱れた髪が左右に振られ、土気色の唇が微かに開いた。 「遮....那王、あれ....は、義.....つ....ねは、生き...て...」 「言わぬ」  掠れた声が問うのを、無造作に遮った。頼朝の口許が小さく笑ったように見えた。  頼朝は、喉を枯れ木のように鳴らしながら、言葉を振り絞った。 「頼み....が.....あ...る」 「なんじゃ?」  頼朝の手が力なく招いた。  生気を失った眼が遮那王を見つめていた。   「引導を渡して欲しいのか?」  軽口のつもりだった。が頼朝は、先ほどよりはっきりと、頷いた。 「そ.....れ....と..」  痩せた手が遮那王をもう一度手招きした。瞬那王は仕方なく頼朝の口許に耳を寄せた。掠れた声で幽かに告げられたそれに、遮那王は身動いだが、小さく溜め息をついて、頷いた。 「わかった.....」 「た....の....む....」 頼朝は大きく胸を動かして、ほぅ、と息をついた。 「わかった。.....もう眠れ......」  遮那王は囁くように言い、頼朝の乾いて割れた唇に、自らのそれを重ねた。頼朝の目が一瞬見開かれ、そして微かな微笑みとともに閉じられた。   遮那王は、束の間その面差しを見つめ、御簾の外にそっと出た。弁慶が、ひそと尋ねた。 「遮那王?.....頼朝は?」 「逝った.....」  ふぅ.....と遮那王は深く息を吐き、弁慶に向き直った。 「帰るぞ.....」  頬を、一筋の滴が伝った。

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