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08 再会 三枝

 *  今度、黒猫の彼・向野に会ったら、どんな顔をすればいいのか。三枝は悩んだ。  「一夜のアヤマチ」とやらで片付く話で、もう会うこともないと思っているかもしれない。恐らくそうだろう。だから「一晩」と限定して行為に及んだのだ。けれど実際は、あわよくば仲良くなりたいと思いながら、ずっと前から見ていたなんて知られたら、アオハルな学生ならまだしも、30代の男のすることじゃないと批難されそうだ。  『シェアリ』の受付嬢に口裏を合わせてもらい、偶々、再会しちゃったね、というならまだ…? 否、それも嘘くさい。「え? あの人、随分前からここ利用してますよ」なんて誰かに言われてしまえば、おしまいだ。『シェアリ』には行きづらい。  せっかくお近づきになれたというのに、実際は前より距離を持たなければならない現状に、三枝は一人悩んでいた。  気まずい思いをしたとしても、早めに会って、キモい片想いを謝って許してもらって、彼ともっと接近した方がいいのではないか、いや、接近したい。  彼氏がいる。  田中くんの浮気が許せなくて別れたくせに、今度は自分が浮気相手になってしまった。しかもナンパ。質が悪い。一夜と言ったのだから、ここは再会までもなくどこかですれ違ったとしたとしても、知らん顔をするのが大人なのだろう。  夢のような一夜だったのに、なにもいいことはない。ただ、気を抜くとまだあの生々しい感触を思い出す。あの顔と声を。  妄想に飲み込まれそうになって慌てて首を振り、三枝はパソコンの電源を入れた。  浮かれているせいか、問題があるはずなのになにも考えられなかった。  *  梅雨が明けたかと思えば雨の日ばかり、晴れたかと思えば真夏日で、日中は外を歩くこともできない気温上昇。どちらも嫌だと言いながら、クーラーの下に逃げ込む夏が始まった。資材の展示会や都市計画のワークショップが続いていた。配布用資料に、自作を何件か掲載さえてもらえる機会があり、忙しく他所様の事務所などへ出向いたり、展示パネルの作成に呻ったりしながら6月を過ごした。落ち着いてデスクワークをする時間がなかったせいで、『シェアリ』には1ヶ月近く行けなかった。  パネル展示のおかげが、問い合わせメールがたまっていた。コーヒーを淹れようとしてハタと気付く。今週水曜日に水道工事のため断水とあった。  久々に『シェアリ』に行くことにした。  受付嬢は「お久しぶりでーす」と迎えてくれた。一度も来ないなんて、月額使用料がもったいないですよーと言われ、近況報告をする。 「向野くんは最近来てる?」と気軽に聞けたらいいのだが、そうはいかない。知り合いだとは知られていない。金魚鉢の彼の席も、今は空席。いつも利用していた自分の席へ行ってパソコンを開いた。メーラーが起動するまで、コーヒーをすすりながらぼんやりと、彼のシルエットを描く。真夏でも黒の長袖だろうか?  彼氏がいる。  恐らく喧嘩の原因は彼だ。迎えに来るはずの彼が来なかったから、当てつけに浮気でもしてやろうと思ったのだろう。察するに「サルのオナニーごっこ」のような行為しかしない仲だ。10分とかからない行為なら、誰とヤっても罪悪感もないかもしれない。そんな簡単な気持ちで誘ったのかもしれない。  翌朝、反省しきりの彼氏が、平謝りで温かく向野を迎えてくれたらハッピーエンド。 「お肉食べさせてくれた親切なおっさんの家に泊まっただけー」  すべてを伝えなくても嘘にはならない、OKになってしまうだろう。「オトコと寝たのか?」と聞かれなければ、嘘をつく必要もない。そんな事実はなかったことになってしまう。だから、キスマークを残そうとしてやめた。  浮気は終わりだ。考えれば考えるほど、自分の存在は、向野に必要がない。おそらくもう、忘れられている。  メーラーは起動したが、暫くカップの中の黒い縁を黙ってみていた。  黙々とメールを片づけていたら、昼を過ぎていた。以前なら、そろそろ向野が来る時間だ。荷物をまとめて退席する。忘れられている、そう思いながらも顔を合わせるかもと思うと動揺する。  受付嬢に挨拶をし、以前紹介されたベーグルサンドのお店のことを思い出した。Sのつくコーヒーチェーンを曲がると、黒壁にツタがびっしりと張り付いている建物があった。ドアの下隅は腐敗して削れたような、冬は隙間風が辛そうな年期の入った店構えだった。曇りガラスに書かれた店名は、濁っていて読めない。  昔ながらの金の丸ノブ。飲食店なのに衛生概念がなさそうな入口に躊躇っていると、実は自動ドアらしく、すっと横にスライドした。不愛想な年配の女性が、ショーケース越しになにか呟いた。  ショーケースの中は、意外にもおいしそうなベーグルサンドが並んでいた。「アボカド、シュリンプ、レタス、マヨネーズ、レモン汁 360円」名前ではなく、入っている具材と値段が、癖のある字で書かれている。 「ローストビーフと…?」 「コーヒー? 紅茶?」  読めない文字の先を訊ねようとして、注文と受け取られたようだ。食い気味に聞かれ「アイスコーヒー」と応えると、テキパキとトレイにそれらを載せ、会計を済ませてくれた。二階へ向かうと、成程、木目調の店内には伸びをしても隣とぶつからないほど、ゆったりスペースに席があり、窓に沿ってカウンター席があった。  広々とした店内には熟睡しているサラリーマンが一人と、スマホを弄っているOLが一人。昼寝にはもってこいのお店だ。  窓際のカウンター席に座る。北向きだろうか、大きな窓から日差しが差し込むこともなさそうだ。ただ明るい。何の表情もない向かいのビルと空だけが見える。  黒光りしたカウンターの隅に違和感があった。よく見るとスマホのようだ。誰かの忘れ物だろうか。手を伸ばそうとしてぎょっとする。画面が激しく割れている。弾丸で打ち抜こうとして表面だけ割れたような、見事な亀裂だ。壊れているのだろうか。  あの不愛想な店員に渡しにいこうかと、手を伸ばした瞬間に着信画面になった。バイブ機能のせいで、スマホは震えながらゴスゴスと音をたててこちらへやってきた。スマホを弄っていたOLに舌打ちをされる。電話に出るべきかと迷いながら手を伸ばすと、着信画面には『シェアリ』とあった。あのコワーキングスペースの利用者だろうか。ほっとして電話に出た。 『あ、恐れ入ります。私、その携帯電話の持ち主なのですが、拾っていただきありがとうございます』  有無を言わせぬ滑らかな滑り出しに、血の気が引いた。…まさか?  無言のままでいると威圧的な『もしもし?』が聞こえた。この声は間違いなく向野だ。心臓が潰れそうに早打ちを始めた。こんな偶然があるものなのか? しかたなく「はい」とだけ答える。 『その携帯電話はどちらで拾われましたか? お時間よろしければ取りに伺いたいのですが、ご都合はいかがでしょうか?』  なにか、コールセンターの人と話している気分になった。 「えっと、お店の名前がわからないのですが、ベーグルの…」  と伝えると、「ああ!」と明るい声があった。そこだけ感情が入っていて、なにか面白かった。深夜のステーキハウスであっという間に300gのサーロインを食べきってしまった向野に食べかけの自分の分を差し出すと、嬉しそうに自分の方へ引き寄せた。「いいの?」あの時の声に似ている。 『わかりました。お店の二階にいらっしゃいますか?』  「はい」といったら来てしまうだろうが、「いいえ」とは言えない。口籠っていても彼は勝手に話を続ける。 『お忙しいところお手数おかけしまして申し訳ございません。5分とかからずにそちらに向かう予定ですので、それまでお預かり頂けると助かるのですが』  5分。そんな走る必要はない。 「承知しました。急ぎの用事があるわけではないので…」 『ありがとうございます。すぐ向かいます』  電話が切れた。ため息をつく。  コールセンターにもきっと、速読マニュアルみたいなものがあるのだろう。用件を伝えられる前に答える。そうでもしなければ、AIに職を奪われてしまうかもしれない。時代はどんどん進んでいるようだ。再びため息をつき、ゆっくり腰を落とした。  ギギギと音を立てて椅子から立ち上がると、OLが立ち去ってしまった。その音で飛び起きたサラリーマンも、慌てて身支度を整えると出ていってしまった。  絶望的な話ができる環境が整ってしまった。  すっかり食欲をなくし、ベーグルに挟まれたローストビープを見ていると、老犬があきれ顔でこちらを向いているように見えてきた。  やがて、階段がギシギシと音を立てた。どんな顔をすればいい。額に手を当て、老犬に訊ねてみても応えは返ってこない。こういう場合どんな挨拶をするのか、ビジネス上の参考になりそうな言葉を待ってみる。  だが、それはなかった。  足音は確かに階段を上り切ったはずだ。暫くの間があって、足音もなく気配が背後までくるのがわかった。さっきのテンションで声を掛けられるのだと思ったが。…背中で分かるとでもいうのだろうか。  細い腕が伸びてきて、テーブルに置かれたスマホを掴んだ。 「ありがと。拾ってくれて」  それは、絞り出すような声だった。思わず振り返って確認する。信じられないとでもいうように、瞳を大きく見開いていた。緊張した面持ちの向野の顔は、やけに白くみえた。  髪を切ったばかりなのだろうか。短くなったせいか、少し子どもっぽく見えた。ピアスが一つに減っている。夏だというのに、黒の長袖Tシャツだった。あいかわらず全身黒だ。  ガラス玉のような瞳で、じっとこちらを見つめてくる。消えてしまいたい気持ちが勝って、窓の方へ首を戻した。 「…コールセンターの方ですか?」  言葉がでなくて茶化してみた。大人げなさに笑いがこみあげてくる。 「週末の深夜だけ。大学からだから長いかな」  素直に答えてくれた。 「もっと、違う仕事だと思ってたけど」 「掛け持ち」  短く答えるとカウンターを背に寄り掛かるようにして、向野が隣の丸椅子に座った。 「長いから、か、居心地がいいからか、就職してもそこのバイトはずっと続けてる」  あんなことがあったのに、普通に話せてしまうことに動揺している。バカみたいに悩んだのは自分だけで、彼はなんとも思ってなかったということだろうか。 「そう。電話対応ってしんどいイメージだけど」  光のあたる彼の背中を盗み見る。残したかったキスマーク、白い首筋が眩しい。 「しんどいね。でも護身術を覚えられるよ」  言葉の武器は確かに痛い。 「マニュアルどおりなら、身を守れる?」  ため息のような笑いが短く漏れた。「そうだね」と小さな返事。 「思っていることをいうより、世の中のマニュアルはこうなっているからこの通り答え、この通り謝り、このとおり気遣いすれば、まともな人間扱いされる。とても楽だよ」  無造作に針を何本も落とされたような気がした。サクっと何本かが皮膚に刺さったような錯覚。顔を見ようとするが、俯いてて窺えない。右手で向野の顎を掬うと、瞬時に避けられ、見事なまでのポーカーフェイスがこちらを向いた。  暫く視線を合わせたが表情は揺れない。 「なにか心配ごとでも?」  そう聞かれてはなにも言えない。それ以上は触れさせない、自分から言っておいて線を引かれた気分だ。  パンと膝を叩きながら、 「ところで、何故あなたはここにいるんですか?」  と、向野が話も空気も切り替えた。  仕方なく、財布から『シェアリ』の会員証を出す。 「え? 嘘嘘嘘!」  向野はカードを両手で掴むと、子どものように声を上げた。 「えー、うっそー」 「えー、しかもゴールド?」ちらりと痛い視線が向けられた。どう反応していいかわからず、黙っていると視線はまたカードに戻る。「しかも、2月から」そういえば入会日が書いてあった。ゴールドということはヘビーユーザーだということもバレた。  ひたすら「えー」と繰り返しながら、カードと三枝を見比べる。 「言い出せなくてすまない。実は前から君を見てた」  カードがすっと突き返される。 「バーで会ったのは偶然だよ」  うんうんと頷きながら、向野が横の席に座りなおす。 「『黒が良かった?』って意味が、やっとわかった」  ポツリとそう言った。  ああ。か細い彼が着られそうな服を選んで渡した時、思わずそう言ってしまい焦ったことを思い出す。視界の隅で、向野の膝が上がるのが見えたが、すぐ降ろされた。成程。膝を抱える癖があるから、あのコワーキングスペースでは裸足なのだと納得する。脱ぐのが面倒臭そうな編上のブーツをはいていた。 「前から君のことが気になって、見ていた。バーで偶然出会って、話をすることができて、嬉しかった」  正直な気持ちを伝える。窓も開いてないのに風が通った気がした。珍しい間を感じたからだろうか。 「…話をすること、なの?」  セックスでしょ? 口にされない言葉が聞こえた気がした。 「下心があって君に声をかけたわけじゃない」 「知ってる」返答はいつも早いが、それは意外な返事だった。 「あんたは他の下衆どもと違ってた。あんな衣装着てるから視姦されてもしょうがないけど、あんたは、そうだな、そんな服を着てる俺をみて驚いた感じだった」  シカンという響きにドキリとした。見えるものなら見たいと思ってはいけだけに、少し悪い気がした。「あなた」から「あんた」に格下げされたけれど。 「持ちかけたのも俺だし、ね」  目的語を言わない。が、もしかすると買いかぶりだ。けれど。 「もう一度、君に会えたら、抱くよりも話がしたいと思った」 「そのわりにはここのところ、『シェアリ』には来てなかったと思うけど?」 「…どうしてそれを?」 「俺は週2~3回しかこないけど、それを見てるとしたらモブの中で思い出すのは、奥の窓際の男があんただ。入れ替わりはあるけど、常連はたいてい、自分の席と決めたところから動かないからね」  鋭い。そして観察力にも感嘆する。 「仕事が立て込んで…」 「どうだか?」 「ホントだよ」 「あんたにとって、1ヶ月は“ちょっと”って言える時間なの?」  まてまて、なんで痴話喧嘩モードなのだ。ストップという代わりに手を挙げたが、彼の言葉の弾丸は止まらない。 「ホントは避けてたんじゃないの? もう一回会ったらなんて言おうか、考えあぐねて足が遠のいたんじゃないの? てか、それ早く食べちゃいなよ」  図星過ぎてなにも返せない。 「…食欲がなくなった」 「じゃあ貰うよ」  相変わらず食欲旺盛だ。ほほえましいと思いながらトレイをずらす。アイスコーヒーの上半分が水になっていた。  同じものを見ていた彼が、目で訴える。 「冷たいの買ってくるよ」 「なら、カフェオレ、ミルク多めで」  なんで尻に敷かれているんだ?   アイスコーヒーでクールダウンした。スマホの割れた画面は、猫に踏まれたのだと言った。猫を飼っていることを知った。やはり猫派だ。 「良かったら、また、こんな風に話したい」  改めて申し込む。  ローストビープが飲み込めないのか、暫く返答はない。先ほどのコールセンターの話が引っかかった。「まともな人間扱い」とはなんだろうか。  カフェオレで流し込んで、冷えた言葉がかえってくる。 「彼氏いるって、言ったよね?」  そうだった。 「うまくいってるの?」 「余計なお世話でしょ」  またベーグルサンドにかぶりつく。  全くだ。浮気が許せない人間が、その続きを求めてはいけない。だが、話すだけなら問題はないのではないか? そうだろうか。田中の浮気を疑った時、「何度かは寝たけど、会って話してるだけだよ」と言われた。前半に怒ったのか、後半に怒ったのか。自分に置き換えると問題が甘くなるのだろうか。  彼氏がいる。  だから何だ? 彼氏は君の力になっているのか? 余計なお世話だ。自分なら力になれると思っているのか? それは分からないがなれるものならなりたいと思っている。…偽善だよ。  頭の中で葛藤していても始まらない。 「それでも、話がしたい」  葛藤なのか、薄っぺらな自問自答なのか、彼がいいそうなセリフのシミュレーションをしているのかわからなくなる。  モグモグしながらベーグルを睨んでいる顔を、ただ眺めた。  彼氏がいる。  ――奪いたい。

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