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10 へぎ蕎麦屋 三枝
*
連続真夏日が続いていた。地域によっては40度を超える気温を記録しているところもあるようだ。
『不要不急の外出は控えてください』気象庁が浮ついた気持ちを戒める時代になった。あれから一週間が経った。
「話がしたい」
断られた。電話番号も教えてもらえなかった。ただ、ここでは会えるはずだ。
そう思っていたが、甘かったかもしれない。この一週間、朝から晩まで粘っていたが、一度も姿を見ることはできなかった。先週会えたのは水曜日、曜日によってルーティンがあるのではと期待したが、無駄だった。
フラれたということか。
時計を見れば夕方6時過ぎだ。日が長くなったせいか、それとも気候が変わったせいか、この時間なら見られるはずの夕焼けも、最近ではみることもなく、気が付いたら夜だ。季節も時刻も、この国から無くなるのかもしれない。
渋滞に巻き込まれる前に帰るか。その瞬間「ドスン」と、向かいの席にムササビでも落ちてきたように、何かが転がった。
「…え?」
息を切らしながら、ソファーに深く身を沈めている向野がいた。白いワイシャツ、グレーのスーツ姿だ。
「間に合った」
肩で息をしている。「走ってきたの?」と聞くとうんうんと首を縦に振った。危険行為だ。
「ふ… おじさん」
笑いながら言われた。向野が細い指を眉間に立てる。
「眉間に皺よせるのって、心ン中で小言言ってたりするわけ?」
そのとおりだ。三枝の飲んでいたコーヒーカップを覗いて、またソファーに身体を埋める。
「お水持ってこようか?」立ち上がると、手で制された。
「ごはん食べに行こうよ」
無邪気だ。立ち上がったものの、肘掛に腰を落として眺める。ビジネススーツかと思ったがモッズスーツだった。ファッションにはこだわりがあるらしい。一つ知るたびに嬉しくはなるが…。
「僕はもう、フラれたと思っていたよ」
さっきまでの悲しい気持ちをどうしてくれる。すると向野が悪戯っぽく笑いながら、掌を横にむけ額に当てる。ごめんということか。
「水曜日は予定入れないつもりだったんだけど、打ち合わせがどうしてもずらせなくて。おまけに先方の会社でやるっていうし、入口どころかエレベータ乗るのも通行証が必要なご立派なビルの中だからさ、気軽な恰好じゃいけないし、やんなっちゃったよ」
「そういえば、君の仕事、聞いてない」
「あ、俺も聞いてない」
息を切らしていたのに、こんな長く話せるなんて、若いって羨ましい。呼吸は整ったようだ。
「まず河岸を変えようか」
「うーん。臭いのつかないものがいいかな?」
*
駅の向こう側にあるへぎそば屋に落ち着いた。メニューを見ながら、豊富な日本酒メニューのページを開いて寄越された。
「なんか飲むの?」
「残念ながら今日はクルマなんだ」
受け取らないことを手で制して答えると「へぇ」といいながら、楽しそうにメニューを眺める。
「じゃあドライブとかも行けるんだね」
「…行きたい?」
「全然」
これもいわゆるマニュアルトークなのだろうか。話すのは楽しいが、本音か嘘か建て前か、思ってもないご挨拶なのか、聞き分ける必要があるようだ。コンマ数秒で、抱いた期待を粉々にしたことも知らずに、楽しそうにメニューを眺める顔をみて、それでもいいかと思えてしまう。それをより分けられる人材として選ばれたと思っているからだ。
いくつか注文をして、お互いの仕事の話をした。
三枝は建築家として駆け出し中で、企業の建築士を何年か経て独立した。建築士として設計士として、声がかかればどこへでも行って自分を売り込んでる最中だ。大小といわれても大きなプランの中の小さい個人作業もあれば、小さいといいながらも自分の意向が大きく通ったものもある。そういうと「わかる」と向野も頷く。
向野の仕事はWEB業界。フロントエンドエンジニアが主で、SEOに興味を持ってここ最近は、セミナーに通って資格取得の勉強中。そしてUI/UXデザインも行っているという。建築家・建築士・設計士の範囲がわからないように、それらの業務内容の差もわからないが、それぞれに必要なスキルがあり、多く勉強しつづけなければならないという立場的なものは一緒だということだろう。
「よく言うIT業界とWEB業界って違うの?」
「ああ、アイドルが群がるIT業界シャチョウってのは有象無象にいるよねー。あれは主に広告業。売り物にならないバナナを配ってくれる八百屋のおっさんだって、一粒5万円のいちごやメロン売ってる八百屋のおっさんだって同じ八百屋。IT業界の社長は広告出せば年収が低かろうがステマだろうがそれだけで自称IT業界シャチョウだち。外注ばかりで実績なかろうが、実績把握してなくてもシャチョウだからねー」
「嫌いなんだってことはわかったよ」
笑いながらいう。ぺしこ漬けを口に放り、両手で口元を抑えたかと思うとウーロン茶を流し込む、その表情が面白かった。ダメなのかと思ったらもう一口運び同じ動作を繰り返す。食にはとことん旺盛らしい。
「まー広告入れるためのサイトやアプリを作るWEB制作会社もあるから、実際区別はつけられないけどね」不満そうに付け足される。
「WEB業界は、向野くんのように自由な感じなの?」
被せるように会話が続くものだと思っているから、一秒以上の間があると、あれ? と思う。手を挙げて、ウーロン茶のおかわりを頼む向野の仕草は、自然すぎてダウトを見抜けない。
「今は試用期間中。転職活動をしてる間、『シェアリ』で知人から仕事貰ったりしてたけどね」
あの、やたら向野を笑わせていた女性は仕事をくれる知人なのか?
「そっちの業界ってノマドとかリモートとか増えてるのかと思った」
「いやぁ、実質はブラックばっかだねー。裁量労働制とかうまいこといっちゃってさ。基本給に見込み残業20~40時間なんてのが当たり前で、一日9時間労働を強いられる業界だよね」
「それは長いな」
「うん…」
頷きながら壁の向こうの視線の先に、向野の経験してきた過去の会社が見える気がして、目線の先を追ってみる。
「裁量イコールノルマなら、時間内に終わらない自分のスキルの問題だって考えて、タイムカード押してからのサービス残業が当たり前なんだよね。終電まで粘っても終わらなくて、持ち帰って仕事して、泣き落として週末粘って力振り絞って徹夜で作業してさ。休みなく、また次の週にはノルマが与えられるんだ。
でも、できてる人もいたりすると、『ああ、まだ自分のスキルとスピード感が足りないのか』って、もっと頑張ろうって思うんだけど…」
シェアリでの彼を思い出す。仕事は早いだろうと思っていたのに、それを否定する社会なのかと思うと違和感しか感じない。
「身体、壊すよ」
壁の向こうで、必至になっている向野の姿が見える気がした。辛そうな顔で必死に画面をスクロールしている。沈黙の降りたテーブルに、目敏く店員が声を掛けてきて救われた。
ウーロン茶のおかわりを愛想よく受け取りながら、空いた皿を店員の方へ寄せていく。自分をさらけ出しながら、余所行きの顔も見せられる向野の態度に不安を感じた。三枝の声が、届いてないのかもしれない。マニュアルでは受け答えできないものはどうするつもりなのか? 店員が下がると繰り返しになるが、不安を口にしてみた。
「身体壊すよ」
真面目な人ほど、気を遣う人ほど、鬱になりやすい。働きすぎて自殺した友人がいた。まさにさっき聞いたように、自分のスキルやスピードが足りないせいだと自分を責めているのを聞いた。一月も経たないうちに訃報を受けて呆然とした。
来たばかりのウーロン茶を一口飲んでいる小さな顔に、友人が重なる。
「前のね、会社辞める時期が一緒だった先輩がいて、その人にも言われた」
ウーロン茶のグラスから離れない指。関節が白く浮き立つ。
「でも、また同じような会社に入っちゃって。前の会社より、条件がユルイつもりで入ったのに、気が付いたら一緒だったの。まだまだ、自分のスキルが全然足らないんだなって。覚えること、学ぶこと、全然足らないんだなって、頑張ってみたけどやっぱり身体がもたなくて…半年もしないでまた辞めた」
エビの天ぷらを眺めている彼の前まで、塩の小皿を視界に入るまで押し続け、取り分け皿がカチっとなった。
「春先の大雨の日に女性の来客があったよね。あれ、先輩?」
「…よく見てるよね」いつもより、ワンテンポ遅れて返事があった。
「高岡先輩。すっごいサバサバした人で、見切りつけるのも早かったんだけど、俺のこと気にかけてくれて、俺が辞めるって決めるまで一緒に戦ってくれた戦友みたいな人だった」
「…過去形?」
この間見かけたというのに、過去形なのか? 向野は寂しそうに頷く。
「半年で辞めたことも知ってるし、転職の相談も乗ってもらったりしてたんだ。次が決まるまで勉強期間としてゆっくり、条件のいいところを探すって。SEOのセミナーも次の転職までに資格取れてたら役に立つかなと思って受講始めた。それで、その間、先輩が個人で請けてる仕事回してもらったりしてね」
あの楽しそうな二人の後ろ姿を思い出す。仕事のパートナーだとしたら、かなり楽しかったに違いない。少なくとも、その仕事に向けて真剣に取り組んでいる向野の後ろ姿を自分は見守ってきたのだ。
「…不義理をした」
回想を断ち切るように向野が、溜息を消すように言葉を乗せた。
「先月決まったんだ、新しいとこ。いろいろ任せてもらえる領域が多くて、やりたいことが全部詰まっている会社だったから決めちゃったんだけど…。人が少なくてね、思ってた以上に忙しいんだ。
…だから、前の会社と一緒じゃん、二度失敗してるのにバカじゃん? って。結局、無理して限界になって辞めるよって、預言みたいに言われて腹が立った」
告白は懺悔だろうか。渇きを覚えて、ウーロン茶を半分ほど飲んだ。
「それよりも、転職が決まるまでって、俺に任せてもらった仕事を、結局忙しくってできなくてさ。この日までにやって、って言われた日付も守れなくて。でも、こういう状況で余裕ないのわかってるくせに約束はどうしたって言われて、頭きて」
腹立たしさを思いだしたのか向野が、エビの天ぷらに噛みついた。よく噛まずに飲み込むと、箸をおいて頬杖をついた。自分の世界に入ってしまいそうだ。
「彼女の依頼はそんなにハードなものだったの?」
置いたグラスを見つめながら「違うけど…」と呟いた。
「仕事決まる前だったら2~3時間もあればできることだった。一週間、時間貰ったんだけど、手を付ける暇がなかった。だから、締め切り伸ばしてもらって、できたら連絡するって言ったんだけど、…やんなかった」
…それはダメだ。と思うが口を挟まなかった。
「で、2週間くらいして催促されて…」
「…仕事決まって忙しいからって言ったんだね」
「…だって実際そうだし」
「なら、彼女が怒るのわかるなぁ。そんな2~3時間の余裕もないほど忙しい会社にまた性懲りもなく入るなんて、どうかしてるって。前の会社は無理して限界になって辞めたのに、またおんなじじゃないって、僕も思うよ」
ここは肩を持つべきなのだろうが、フォローすべき点はない。壁を見ていた向野は手元に視線を戻し、押し黙る。
「預言じゃなくて、なにより、心配してるからこそのセリフだよ」
冷めた顔をしてグラスを見つめている。いつものように口戦してこないのは、本人も十分わかっているからだろうか。
「…君に期待してたんだろうね」
沈黙が落ちる。2~3時間の仕事が、一週間経っても手を付けられていないとしたら、自分ならその時点で巻き取るだろう。彼女は彼の意思を尊重したのだろうか。やるといったからには、やらせてあげたいと。或いは巻き取るとは言いだしにくかったか。それからさらに連絡なしの二週間を彼女はどんな思いで過ごしたのだろう。「不義理」といった彼もまた、その二週間をただ平然と過ごしていたわけではないだろうけど…。
店員が「へぎそばでーす」と明るい声で寄ってきた。「中ざる」を頼んだが、蕎麦屋のざるよりへぎはやはり大きくみえる。三枝はテーブルに置けるスペースを作りながら、いつもなら先に動くはずの向野が、黙ってみていることに少し焦った。落ち込ませるために話をしているわけではないのだが。
2~3人前だが、ここで食欲をなくされたらかなり困る。店員が立ち去っても向野は微動だにしない。
「食べようよ」と言って先に箸をつけた。ツルツルとしていておいしい。彼に食べてもらえなければ、この店に来た意味がない。フルスピードで、彼の考えを推し量る。
「君には勝算があるんだろうね」
冷たい表情のまま瞳だけが動いた。
「同じような忙しい会社だとしても、今日みたいに早く帰れる日もある。そこは前の会社と違うのかな?」
質問系にすれば人は返事をしなきゃと思うらしい。LINE上達方法という本(ビジネス書だが)に書いてあった。
「…仕事の締切さえ間に合えば、どこでやってもかまわないって会社なんだ」
「それはいいね」というと、こくりと頷いた。
「ただ、持ち帰って仕事しようとしてるなら、ずっと仕事抱えて追い詰められてるようで、大変そうなのには変わりない気がするけど…」それこそサービス残業前提の仕事だ。
「でも、趣味があるわけじゃないし、やりたいことがあるわけじゃないし、それは別にいいかなって」
蕎麦を一人で食べ進めている三枝が気になったのか、向野は蕎麦猪口に左手を添えた。
「え? バンドは?」
「空中分解じゃないかな。だれもアレから集まろうとはしないし」
「そんな希薄なものなの?」
バンドとは、好きなもの同士が集まってやるものだと思っていた。聞いた話だと、バンドコンセプトで募集したメンバーだから、本名も素性も知らずに活動していることもあるそうだが。ならば、メリットはなんだろうか。バンドメンバーには彼氏とやらがいることを思い出し、話を戻す。
「ずっと会社にいなくても良いってとこが決め手だったの?」
こくりと頷く。話が終わるまで彼は蕎麦に手を出さないかもしれない。四口目をとって食べる。へぎそばは時間をおいてもくっつかない手振りだから、焦ることはないが、早く食べさせてあげたい。
「人が苦手だから。…一人でやるとか無理だけど、在宅もOKならいいかなって」
人懐こい印象だったので違和感がある。ああ、でも懐を開いた相手にだけかと思いなおす。
「そろばん塾とか行ったことある?」
急に話が飛んだので、首を振るだけにした。箸を置いて正面から見つめる。
「誰もしゃべんなくて、そろばんの音がただ響く感じ。パシャパシャパシャって。会社もそうなんだよね、それがちょっと怖くなった」
彼の仕事ぶりを思い出す。入力速度は速いと思った。あんな感じの人が黙々とオフィスで仕事をしている風景を考えると、確かにそれは怖いかもしれない。
「ちょっと止まってしまう時に、周りがずっと入力作業を続けているって気付くと、怖くなっちゃうんだよね。いつも止まっているのは俺だけだって」
それは怖い。怖いからすぐ言葉が出た。
「早いからって、いいものができるわけじゃない」
業界は違えど同じだろう。ガラスの瞳がまたこちらに向けられる。
「早くたくさん進んだと思ったら、結構初期に凡ミスをしてることに気付いて、慌てて直してる可能性だってあるでしょう。見当違いなことしてるかもしれないし。凄い分量の成果を出すけど、もっとスマートにできないのかって、悩みながらやってる人だっているだろうし…。遅いとかダメとか、そんなこと、自分で決める必要はないと思うよ」
過去を振り返りながらそこまで言うと、弱々しく、彼の口角が上がったように見えた。もう一押しだ。
「その先輩のことはもうしょうがないけど、やってみようと思ったなら挑戦し続ければいいじゃない。今からそんな弱気じゃだめだよ」
顔に精気が戻った。やっと、向野に声が届いた気がした。
「食べなよ」というと嬉しそうに笑った。
越後のっぺ、へしこ鯖、合鴨のロースト、そば粉で作ったデザートなど、実によく食べた。会計になってワリカンでいいよという彼に「顔をたたせてくれ」というと鼻で笑われた。
もう少し一緒に居たいものだが、送ろうなんて野暮なことはいえないから駅で別れた。小さな背中が人混みに消えるまで見送った。
必死なのだと思った。自分の欠点やコンプレックスをわかっていて武装している。失敗と気付くと、自ら壊してしまうこともあるようで、そこが怖い。ある意味完璧主義なのだ。はじめから終わりまでミスなく迅速にできたものしか、成功と思わない。やはり自滅しやすい気がする。
見えるから怖いと言ったが、一人作業をするうちに、見えないからこそ怖くなることもある。そうならなければいいが…。
駐車場へと歩きながら三枝はかぶりを振った。彼はまだ若いのだし、自分や喧嘩別れしてしまった(高岡といったか?)先輩のように、歳のせいで無駄な心配をしているだけかもしれない。就職氷河期は新入社員だけの問題ではない。百社だめでも百一社目にいい会社に巡り合えるかもしれない。自由が利く会社だといった、そこでうまく行くことを願うしかない。
十分ほど歩いただけで汗がにじんできた。夜になっても全く気温が下がった感覚がないが、家に帰ったら、彼を見倣ってもう一仕事しようと考えた。
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