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12 猫と… 向野

     * 「ナァ!」  耳元で声がして、びっくりして飛び起きた。枕元を振り返ると猫のヒカルが、飽きれた顔で見上げている。マンチカンのグレーだが、夏毛はやたら白くなる。 「…なんだ、お前か」  バタンともう一度倒れる。外はもう明るい。朝というより日中の日差しだ。じっとりと汗をかいていることに気付く。夏はあと何日続くのだろう。ひどく長い。ひどく暑い。手探りでリモコンを探し、つけっぱなしのクーラーの室温設定を2度下げた。 「ナァーー」  ヒカルがごはんを欲しがって鳴いた。額を指で搔いてやると、こっちがいいとばかりに横顔を突き出してくる。サリサリと首筋を掻く。指先の感触が心地よくて目を閉じる。  昨日、ふいに掴まれた手。久々に触れた。三枝の重み、体温。  好きだといわれるほどちゃんとした人間じゃないのに…。それとも余程ヨカッタのか。だったらいっそ強引に、もう一度犯ってくれればいいのに。  ついつい苛立ちに任せて、自分のクソすぎる部分をさらけ出してしまう。それを引くこともなく、普通に会話を続けようとする三枝が不思議で、そしてありがたかった。普通はそういうものなのか? 自分は運悪く心無い人、情け容赦ない人、残酷な人にしか出会ってこなかっただけで、世の中には三枝並に、我慢強くダメな人の言い訳や嘘も根気強く聞いてくれる人がたくさんいるのだろうか。  社会人の関係は、信頼を失えば一瞬で終わり、仕事の精密さや出来より、人間性で選んでいる、転職活動をしていて少なからずそんな理由で断られることがある。それはそれで有りだということはわかるが、その基準値で落ちた人間に、どうやって生きていけというのか? 「人として落選」そう言わたら「死ぬしかないのか」とも思う。たかが転職活動で、と傍からみたら簡単な自殺と思われるだろうけど、本当に無気力になるほどの傷を負う。 「…メシは?」  不機嫌なアツシに言われて、落ち込んでる暇はないと気づく。食事の支度をして、食卓を挟む。夕飯の時間はアツシが見たい番組があるらしいから、あまり声をかけることはない。スマホで好条件の求人をみれば、かたっぱしに応募ボタンをタップした。  ヒカルが三枝の掴んだ手首を踏む。 「コラ…」  久々に触れた。力を、入れなかった。力を、強引さを欲しがってることを見透かされたような気がした。それとも、そんなことも見透かされていて、じらして遊んでいるのかもしれない。  じらす? 三枝はそんな人ではないと思う。けれど、転職活動で傷つけられ、腐っていく気持ちはなかなかなもので。他人の誠意をなかなか信用できなくなる。 「マニュアルもいいけど、自分に合うかどうか検証することも必要なんじゃないの?」  人の行動に、正解なんてないことは分かっている。自分に合ってるじゃなくて、普通に見えればそれでいいんだ。  ツっと痛みを感じて手をみると、親指の付け根を血が伝う。きれいなひっかき傷が一筋できた。撫でるくらいじゃ誤魔化されない、とでもいうように、ヒカルが叩いた手をもう一度振り上げた。我儘さは飼い主に似たのだろうか。  仕方なく起き上がると、壁の時計が11時を回っていた。…やばい。そう思ったのも一瞬で、今は猫たちの欲求に応えようと、身体を起こして伸びをする。  ベランダの窓の前でアツシの猫・太夫が背筋を伸ばして外を眺めている。1メートルほどあるコンクリの壁のせいで、外は見えないはずだが。ご主人は今日も帰ってこないか。  左耳に自然に手が行っていた。ピアスをなくした穴が二つ、疼いた。  時間が自由になる分、できるだけ家にいるのに、アツシと顔を合わせることはなくなった。たまに洗濯物が置いてあったり、着るものがなくなってたりするのに、どうしても会えない。盗聴器でも仕掛けられているのだろうかと疑いたくなる。  もう、終わりなのだろうか。  何を思ったか、ヒカルがベッドから降りて太夫に体当たりする。フローリングの床を滑って壁にぶち当たる。太夫は態勢を崩したがヒカルの相手はせず、また元の姿勢に戻って外を眺める。壁の向こうの、見えない外を眺めてご主人を探している。猫にも鬱病はあるのだろうか。  無視されたヒカルが戻ってきて、今度は自分に体当たりしようとしているようだ。すっと立ち上がって攻撃をかわすと、彼らの食事の準備をすることにした。  やっとありつけたとばかりにヒカルは、向野を睨みつけながら、キャットフードにかじりつき、何か小言でも言ってるように、咀嚼する顔を向けてきた。横の太夫の皿をカンカンと鳴らすが太夫が来ない。  お皿を持って行って、太夫の前に置くと、やっと目が合った。白黒のマンチカン。太夫なんて名前を付けたせいか、眉に見える模様だけがどんどん濃くなってきた。灰色の瞳が泣きそうに潤んで見える。 「…お食べよ」  お皿を少し太夫に寄せると、それを一瞥してまた、もの言いたげに見上げてきた。 『アツシは何故帰ってこない』と、責められてる気がした。  言ってあげるべき言葉が見つからなくて、額を人差し指でコリコリと搔いてあげた。大きな瞳がゆっくりと細められる。  三枝との夜を思い出す。抱き合いながら、頭を撫でた三枝の手。思い出すだけで震えそうになる唇を、膝に押し当てる。太夫の頭を包んで、そっと撫でた。包まれて、安堵感を感じるのは愚かな人間だけではないはずだ。 「…食べな」  力を入れないようにしながら、少しずつ頭を下げて、ごはんの匂いを嗅がせると、ようやく太夫が舌を出した。  汗を吸ったシーツを剥がし、洗面所のタオルと、着ている寝間着替わりのウェアを洗濯機に放りこんだ。目覚ましが鳴るはずのスマホを探すと、ベッドの下に落ちていた。充電を忘れたようだ。充電器につなぐと会社から3件、電話があったことを一瞬見せて電池切れ画面に戻る。自宅でも外でも仕事する場所は選べるが、コアタイムに連絡がとれないことはまずい。普段、午前中に連絡があることはないから、油断していた。  SEOの資格試験の日が近づいている。前回のセミナーでは的外れなレポートを出してしまった。一回行けなかっただけで、もう遅れてしまったようだ。焦りを感じて昨日は過去問を2年分やってみた。時間はかかったがなんとか回答できたことに安心して、明け方に眠った。  今日、会社で会議の予定はなかったはずだ。重要案件もない。スマホの電池切れでと、正直に言ってみたら用があった同僚はどんな顔をするだろうか。  具合が悪く、午前中は眠っていたと言った方が、体裁はいいのだろうか。  以前の会社で、平日の朝、アツシがプールへ行こうと言い出して、急に休んだこともあった。アツシは同行しているときにスマホを弄ることを許さない。会社へ電話するというと不機嫌になって、手もつけられなくなってしまう。バレないように、移動中やトイレで隠れてこっそり出勤できない旨を伝えた。さぼり癖というのはつくものなのだろうか。 「別にいーんじゃない? 遊びたいとき遊べば」  と高岡は言ったが、そうは思わない人の方が多かった。 「今日、ミーティングがあるって日に休むのはどうかと思う」 「社会人として体調管理は当たり前のこと」  イヤミなことばかり言う先輩に、責任逃れだろうと詰られた。そういえば、今のように試用期間中の出来事だった。重要案件を任されて、その日に向けて準備していたのに、朝、アツシに誘われてサポってしまった。遊びにいくことよりも、その仕事をこなせることを楽しみにしていた、とは誰も思うまい。  だからこそ、詰られたことが悔しかった。こんな奴よりできることを証明したかったのに…。高岡に愚痴ると、彼女は吐き捨てた。 「仕事が一番とかって昭和の、つーか高度経済成長期を担っている男の精神だから、今は違くてもいーと思うよ。息抜きは大事だし。ただ、振り回されてるアンタもどうかと思うよ」  その時点で、あの会社が多分嫌になってたのではないかと思う。否定的だったのはそういうことだと思う。そして断罪された。  膝に額を押し当てる。うまくいっていたはずなのに。また転職活動か。  どうしても、途中ですべてが壊れてしまう。ちゃんとしようと思っているのに、すぐにほころびが見えて、一瞬で壊れてしまう。ダメな奴だといわれる前に、それまで我慢してたことを相手の欠点として責め立てて先に逃げる。いつも自分はこうだ。友達をなくすたび、バイトや会社を辞めるたび、誰かのせいにして、誰かを傷つけて生きてきた気がする。  だからこそ、一度もミスをしたことがない深夜のコールセンターを大切にしている。大切な先輩との信頼関係も、もう崩れているかもしれないと思えば、バイトを大切にする。三枝にもそれはうまく伝えられなかった。  アツシは…。どんなミスをしてもなかったことにしてくれるアツシは、そんな自分をいつでも守ってくれる存在だから。絶対的存在。掃除でも洗濯でも、食事の用意でも、彼のためなら疲れていても、死にたい気分でも、やるのが当たり前だ。  そっと右膝を寄せて右手で太腿を捻る。横にできた痣は少し薄くなってきていた。

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