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14 回想2 向野

   *  疲れていたのだ、と思う。  4月の下旬に面接に行った会社はすべて感触が良かった。二次面接も、実試験もよく、全部合格になってしまったら、どこを選ぼうと悩んだりした。入社日についての相談がくるのかと思っていたが、どこも「お祈りメール」だった。縁のない企業の赤の他人に、将来のご活躍をお祈りされても意味などない。「不採用」と一言書いてあるだけの方がすっきりすると思う。  転職活動もバンド活動もうまくいかず、腹が立っていた。腹いせの浮気も探られることさえなかった。  朝帰りした向野を待っていたのは、猫二匹だけだ。その日から二週間近くもアツシは帰ってこなかったのだ。心配して、何度もLINEを送ったが既読にもならなかった。電話をかけても出ることはなかった。生きているのか不安になった。だが、警察に相談するにも、アツシの家族の連絡先も、勤め先も、向野は聞いたことがなかった。  だから、ひたすら心配していることをLINEで送るしかない。ただ、機嫌が悪いだけでいつか、既読になるかもしれない。二人にしかわからないことを言ってみたり、あのメンバーを選んだことを謝ったり、太夫が寂しがっていると、太夫の写真を送ってみたりした。  あまりしつこいと煩がられるかもしれないと、朝と夜2回だけ。  急に帰ってきたアツシは、乱暴にドアをあけ、ドカドカと音を立てて向野に近づいて来た。張り倒された。 「調子に乗ってんじゃねー!」  手近にあったドライヤーを投げつけられ、クローゼットの扉が割れ、たまたまその下に居た太夫が身を屈め、台所へ逃げ込んだ。ヒカルも太夫に寄り添うように身を屈めた。  一ヶ月、会わなかっただけで陰惨になったアツシの顔を捉えながら、息が止まっていることに気付いた。息が吸えない。  片手で絞められた首は壁に押し付けられていた。「ググ…」と首の骨が押さえつけられる音がした。 「おい! テメーに聞いてんだよ。何様だよ、テメー」  何様? 誤解だ。アツシのために生きてきたのだ。蔑ろにするわけがない。揺さぶられて呼吸が辛うじてできるようになったが、打ち付けられた肩や背中が痛い。殴られて耳のあたりが熱を持った。ピアスが飛んだのだ。首筋を這う感触に出血していることを知った。  何に怒っているのかわからなかったが、とりあえず謝った。やり方を間違えただけだ。ひたすら謝った。  その日以来アツシと顔を合わせる回数が減った。いない間に帰ることもあっただろうが、時々、1~2週間に一度、それくらいしか会う機会がなくなっていた。怒鳴り散らすこともあれば、太夫を引き寄せてずっと撫でていることもある。機嫌が悪くない時に近寄っていき、どこで何をしているのかを訊ねたかった。 「どこに住んでいるの?」  するとアツシは小馬鹿にしたように「はあ?」と首を傾けた。 「ここに決まってるじゃねーか。オマエと一緒に住んでるだろーが」  顎を掴まれたかと思うとそのまま押され、床に倒れた。太夫が逃げていくのが見えた。馬乗りになりアツシが目を細めていった。 「オマエが必要なんだよ」    *  8月2日アツシの誕生日だ。  新しい勤務先が決まってから、アツシが不在ということが、少し有難いと感じるようになっていた。もう必要がなければLINEは送らなくなったが、夜寝る前に、どれだけアツシが好きか、送ってこいとの言いつけを守って、24時近くになると必ず送っていた。翌朝既読になるが、返信があることは一度もない。  その日、夕方にメッセージがあって驚いた。 『同窓会があるから時間通りに来い』  転送されたメッセージが続いていた。  同窓会。高校時代、学校生活に馴染んではいなかった。中学時代引篭もりだったから、そもそも友人など作れなかった。勉強をして大学に行きたいという目標があったため、終わるとすぐにバイトへ向かった。  なにが理由かわからないが、不意にイジメが始まった。机の落書きや上履きがなくなることはどうでもよかったが、教科書の落書きには困った。それからはトイレに行くときも鞄を持って移動したが、バケツの水が頭から降ってきた。びしょびしょの教科書をベランダで乾かそうとしたが、投げ捨てられてしまった。もうダメだ、と思ったときに声を上げたのはアツシだった。 「くだらねーことしてんじゃねーよ」  綺麗な金髪だった。眠たそうに机に張り付いていた顔を上げて「うるせーんだよ」と繰り返した。ベランダに出て騒いていたやつらは急に黙り、静かに後ずさるのが見えた。教科書を投げた男だけが「ああ? なんだてめぇ」と言いながら教室へ入ろうとする。すると、アツシの後ろにいた背の高い男おもむろに動き、右手を後ろに引いたかと思うと、教科書を投げた男が次の瞬間に床に倒れていた。背の高い男はベランダに出てくると、冷やかしていた連中の肩や胸倉を掴み、次々に床にたたきつけた。女子も同様に投げ飛ばした。呆然と見ていた向野に近寄ると、背の高い男は向野の胸倉を掴んで吐き捨てた。 「黙ってやられてんじゃねぇよ」  アツシは眠そうな顔でただこちらを見ていただけだった。  アツシがお山の大将になるのは早かった。怒らせると怖いらしいと全校に噂が広まった。向野はそれ以降、なにかあるとアツシの陰に隠れた。クラス替えで状況は少し変わった。カースト制度がいつの間にかできていて、おおっぴらにイジメがあるわけではないが、パシリや万引きも命令があればやった。勉強やバイトの時間を妨げることはないのが、なによりも救いだった。キングのアツシは、それほど酷い命令を人前ではしなかった。性に目覚めたばかりだったからだ。  同窓会は予想どおりに酷いものだった。人は、弱者を追い詰めて遊ぶことが、何よりも好きなのだ。 「え? 向野ってあの向野か」 「まだ生きてるなんて、ウケる」  クラスのおもちゃと、誰もが思っていることは知っていた。引篭もりのクズが、簡単に社会に馴染めると思うな。大学時代の就活の時に、言われたことがある。だから知っている。自分より弱い人間を傷つけないと、生きていけない人は多いのだ。自己顕示欲の歪んだ形だ。自分を認めてもらう代わりに、誰かを貶めて傷つけて存在価値を高めている。 「今なにやってんの?」と興味もないくせに聞いてくる者がいても、黙殺した。テーブルにはつかず、部屋の隅にできたクローク用のスペースに並べられた椅子に座った。  呼んだくせに、この場所にアツシがいないとは思わなかった。 「やだー、無視されちゃった」という声で会場が一斉に笑う。  何が面白いのかわからない。  無反応なおもちゃに飽きて、それぞれが小グループで溜まりだした。つまらない男のつまらない出世話や、可愛くもない女の浮ついた恋愛話に夢中になり、放置されて心の中で胸をなでおろす。  料理にもドリンクにも一切手をつけず、そろそろお開きという時間になってもアツシは現れない。ならば帰ろうと席を立つと、横から肩を掴まれ、席に戻された。  アツシだった。  一瞬歓声があがり、静かになる。どこかで飲んでいたのか相当酔っていることは誰の目にも明らかだった。以前見たときよりさらに、酷い顔に見えた。目の下のクマが青よりも土気色にみえる。隣に椅子を引き寄せて、ほとんど寝そべるように腰を前にして座る。誰かがすかさず寄ってきて、アツシにドリンクの乗ったトレイを傾ける。乾杯をしようという男を無視して、アツシは向野に歯をむいた。 「オマエ、今帰ろうとしなかったか?」 「アツシが来ないのかと思っ…」  手に持っていたグラスを顔に掛けられた。ウイスキーの匂いがした。液体が顔から滴り落ち、炭酸がシワシワと音を立てた。  20名ほどいる個室が静かになっていることを訝しむように、店員が顔を出す。 「申し訳ございませんが、そろそろお時間で…」  声が途中で消えたのは、こちらを見たせいだろう。二杯目を浴びせられた。 「誰が帰っていいっていったんだよ!」  呆然として動くことができなかった。周りにいる奴らが面白そうに、ニヤついた顔で見ているのがわかる。アツシがトレイから3杯目のグラスをとると、店員が「お客様!」といいながらグラスを奪った。 「なんだてめぇ」  チンピラのようだ。アツシを悪者にしてはいけない。慌てて立ち上がって、店員の腕を掴む。 「大丈夫です。これ、ゲームですから」  息を吸ったらアルコールの匂いがして、倒れそうになった。辛うじて椅子の背もたれをつかむと、右足に熱を感じた。 「てめー、弱った演技してんじゃねーよ!」  蹴られたのだとわかるまで、しばらく時間がかかった。  「お客様!」とどちらに向けているかわからない店員の声が聞こえた。眩暈がした。目の前が暗くなる。「なんか言え」とアツシがまた、足を伸ばしてくるのが見えたが、店員が間に割って入ってくれた。 「とにかく、もうお時間ですから! 幹事の方はどなたですか?」  電話が鳴る。また会社からだ。怖くて出ることができなかった。  ポトリと音がして、目を向けると台所の擦りガラスにぼんやり人影が見え、廊下を歩き去る足音が聞こえた。新聞ポストを覗くと不動産屋の封筒が入っていた。そろそろ更新の時期だ。

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