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17 ブラック企業 三枝

 自販機の水を買って一息つくと、高岡が喋りだした。 「ま、さっき言ったように、喧嘩しちゃったからねー。そこから連絡してないんだけど、なんとなく。今日こっちで打ち合わせだから、なんとなーく、様子でもみれたらいいかなーって思いつきで、さっきの店に張ってみたんだけどね。そう運良くはいかないよねー」 「連絡してないということは、連絡先知ってるんですね」  すぐに食いついてしまい、しまったと思った。 「まて。アンタ誰?」  彼女が立ち止まった。彼女に合わせて立ち止まる。名乗ったとしても聞きたいところはそこではないだろう。ただの知り合いだ。…いまのところ。自分と向野の関係とは? 「まさか、彼氏?」  高岡から意外な言葉が出て緩やかにで首を振る。…まだ違う。 「まぁ、そうはみえないな」と呟かれて少し傷ついた。 「ときどき、話しをする程度で…」  素直に言うしかないが、彼女はまだジロジロと眺めてくる。 「敵か味方か出歯亀か、って聞いて嘘言われても、この場合わかんないし…」  彼女はそういうと、歩き出すこともなくキョロキョロと顔を動かした。別の人に道案内してもらうつもりだろうか。 「ああ、まぁそういう考えもありますね」  と納得しながら、どういえばいいかわからず、高岡の前に立ち宣言する。 「将来、近い将来、彼に必要とされたいんです」  こんな海の底のような重い空気の中で、言うようなセリフではない。さらに不快指数が高まった気がした。がしかし、彼女は軽やかに横に並んで、「ほぉ、ほぉ、ほぉ」と夜の鳥のように鳴いた。どうやら、三枝の立場を理解してくれたと思っていいようだ。ゆっくりと歩き出すと、 「思えばあの子もこっちのことよく知りもしないのに爆弾発言したわー」 「え? 爆弾?」 「うん。たまたま二人でランチ行ったら、『僕、ゲイなんですけど』って」  指に挟むようにして持っていたペットボトルが、急に重く感じて握りなおした。 「あーでも、私の友だちにもそっちの奴多いし、LGBTで悩んでる友だちもいるし、もしかしたらそんな話をしてたからかもしんないけどね」  彼女は下を見ながら話す。 「理解あると考えても?」  三枝も顔を向けることができず、まっすぐ前を見て話した。 「どうかな。私が問題抱えているわけじゃないから言い切れないけど。そんなことで差別はしない」  良かったとは口にせず、頷く。 「あの子は、そういうのも気にせずに、言っちゃうから、危なっかしーよね」  それくらい、人は見極めていると思うが、高岡の人となりがわかっているわけでもないから黙っていた。 「でもさ。聞く限り、向野くんの付き合ってる彼は、クズだと思ったんだよね」  向野が彼女に懐いていたのは、これほどばっさり一刀両断するところかもしれない。 「クズ、ですか」呟きながら先を促す。 「一緒に住んでるからって、思いつきで平日にいきなりデートに誘う? 重要な提案がある日とか、狙いすましてサポった、つーか、サボらされたこととかもあってさ。なんか、スケジュールがバレるようなことがあって、そういう日を狙って、クズが有無を言わさず連れまわしてんじゃねーかと…」  言葉が乱暴になって彼女が黙った。喧嘩っ早い性分なのかもしれない。 「つか、平日誘うって働いてないのか? クズ。ヒモか?」熱の冷めない彼女が吐き捨てる。  先ほどの「そうは見えない」という意味がこの軽蔑だったのかと、納得した。しかし、「ヒモ」というのは言われてみて、可能性があることに気付く。 「話聞いてると、どうも食事の世話から掃除洗濯も向野くんの仕事みたいだし、クズが彼のためにやってくれたエピソードって、一緒に猫と遊んだことくらいしか聞いたことないんだよね」  女性ならではの聞き方なのだろうと思う。彼の日常的な話の中で、そういわれれば、具体的な彼の話は聞いたことがない。ただ、三枝は立場が違う。間男だから、敢えて言わない可能性もある。 「彼に暴力を振るわれてるとか、聞いたことはありますか?」  高岡が驚いて、こちらを見上げるのがわかった。視線が合うと、彼女はまた足元に視線を戻した。 「会社にいたころは、少なくともなかったと思うよ」  ならば、最近始まったのだろうか。まさか、自分とのことが原因だろうか。だとしても、暴力だなんて…。黙りこんでしまってから我に返る。高岡に何を聞こうとしていたのか。うまく頭が回らない。アスファルトを照り返す日差しが、容赦なく体温を上げていくのがわかる。 「あの子、いい子なんだよ」黙っていると彼女は続けた。 「仕事できるし、スキル高いし、回転早いから他人の揉め事とかも、さらっと、仕事構築するみたいに、水道管ゲームみたいに、ここがこうでって直せちゃうの」  昔流行ったカードゲームだったか。水道管がまっすぐなものや曲がったカードなどで繋げて遊ぶものだ。水漏れカードなどで人の妨害をしたり、修正したり、そんなものだと聞いた気がする。年齢的なことを女性に聞くのも失礼かと黙っていた。 「私はさ。仕事しない上司が嫌いでね。感情的にぶつかったりしてたんだけど、あの子は理路整然と、上司のここが欠点で、失態で、とバンバン片づけちゃうわけ。こっちはすっきりするけど、言われた上司は立場ないでしょ」  言い方とか、場面とか考えずにね、と続ける。誰かを助けて、誰かを傷つけてしまったわけだ。 「そのつもりはないんだろうけど、敵をつくっちゃうんだよね」  骨董通りを進んだ方がわかりやすいが、並んで喋る道ではない。黙って細道へと曲がると、高岡はなんの疑いもなく付いてくる。 「人間関係で辞めたんですか?」  話を促す。と「私はねー」と笑った。 「向野くんはもっとスキルがあるから、未来ある会社に転職しただけだよ」 「…未来のない会社だったんですか?」  笑って返すと「ないなーい」と、高岡はさらに大笑いした。 「ヒドイ会社だったからねー。感情爆発するから、もう毎日のように誰彼構わず愚痴ってたわー。みんながみんな、誰かしらのこと愚痴ってる会社だったのよ。仕事できる人なんてはっきりいって向野くんしかいないし、辞めるって決めた時は、こんな会社にこの子残していけないなーと思ったりして、変な葛藤だったわ」  どんな会社か想像がつかない。向野はブラックだと言っていたが、企業体制だけでなく、人自体も病んでいたのだろうか。 「土曜祝日も出勤日になっててね、休みたければ有給使えっていうんだよ。打ち合わせと掃除は仕事じゃないっていって、時間外扱いだし。残業すると部署の評価が格下げされて基本給が下がるからって、サービス残業だよ」  人も病むさ。そう言って高岡はカバンからペットボトルを出してあおった。 「アスペルガーって言葉が横行してた」  必要以上にきつくキャップを締める高岡を見ながら、聞きなれない言葉を口に出さずに繰り返した。 「コミュニケーション能力がない。社会的関係が持てない。暴力的になんでも遮断するとかね」説明するように、高岡に言われて頷く。 「ネットで調べては、あいつはこれに充てはまる、あいつはアスペルガーだって。誰かが、誰かをそういってるのを他人から聞く。ま、どいつもこいつもメンヘラかコミュ障だってことなんだけどね」  仕事上、勉強になりそうな素晴らしい建築物が並ぶ界隈なのに、耳から入ってくる情報が鋭利すぎて、目からはなにも入ってこなかった。 「暴力っていえば、やたらえばってる奴がいてね。中途で入ってきた向野くんと最初からぶつかってる奴だった。思えばあいつが最初に向野くんを病人扱いしたんだわ」 「病人?」 「適応障害って」  高岡は変わった建物を見上げながら、そう言った。目が合わないようにしているようだ。黙って前をみて歩き出す。 「奴が向野くんに仕事を依頼したの。簡単な仕事。向野くん、了解ですっていって、そのまま、帰っちゃったんだよね。で、次の日、奴が向野くんにいつできるって聞いたら、もう終わってますがって言われたらしくて。その態度が頭来たとかで、机叩いてなんで言わないんだって怒ったら、報告しろとは言われなかったって」 「…小さい人だね」  建物を見上げている高岡が、鼻で笑う。 「でしょ。そんな奴に、屁理屈言っただけじゃんって思ったけど。普通、仕事の依頼をされたら、終わったって連絡をする。私らの年代だとそれは当たり前だけど、最近の子はそもそもタスク管理もネット上だから、隣にいる人に仕事依頼されても、終わったよって一言はない。タスク管理表にチェック入れるだけだから。それはそれでわかる。けど、この距離にいてなんで一言が云えない。ってその気持ちもわかる。わかるんだけど…」  あ、自分の話になってしまったと、高岡が呟き、話を戻す。 「奴はね、依頼されたら、仕事だけすればいいのではなくて、終わったと報告することも仕事だって。その関連性がわかんないんだって。そういうの適応障害っていうんだって」 「その人、それ、直接彼に言ったのかな?」 「タマちっせーから直接は言わないよ。ただ、あの会社、朝礼がある会社でさ。順番でスピーチが回ってくるんだわ。そんなことがあった次の日が奴の番で、『ホウレンソウとは』なんてスピーチで、充て付けだって、本人はわかってたみたいで、向野くんは愚痴ってた」  転職したばかりでもう問題が起きているとは、なんとも可哀そうなものだ。 「ただ、奴が私以外にもそういうこと言ったりしてたら、いつか向野くんの耳にも入っていたかもしれない。適応障害って誰かが調べて、その先にあるアスペルガーなんて言葉を皆が覚えた…」 「…ヒドイ、会社でしたね」というと彼女の短い影が頷くのが見えた。 「私、”普通”って言葉、嫌いなんだよね。普通こうする、普通はこうだってよく言うけど、自分の思ってる普通と他人の思ってる普通って一緒じゃないでしょ?」 「…確かに」 「普通に仕事できないとか、普通に付き合えないとかで、病気だっていうんだったら、世の中、引篭もりだけの世界になっちゃうよ」  声が弱々しくなってハッとした。振り返ると表情が見えないほど俯いている彼女がいた。 「…あなたも、戦っているんですね」  口をとがらせた高岡が前を向く。右目からポタリと、涙が落ちたようにみえた。汗を、お互いかいていることに気付いて、「今日も暑いですね」と言ってみた。高岡が指をさす。 「あれだ、ストリートビューでみたビルだわ」  うろ覚えだが、そろそろ目的地かとは思っていた。 「そうですね…」と振り返ると路上にいた高岡がいない。横を見ると高岡が、他所のビルのエントランスに入り込んでいくのが見えた。慌てて後を追う。ひんやりしたエントランスでパタパタをハンカチを仰いだ。こんなあちー日に歩きながらしゃべるのは自殺行為だといいながら笑った。つられて笑うと「ねー」といってさらに笑った。 「良くも悪くも味方がいれば、人ってなんとか戦えるんだよね」  高岡が、右手に付けたゴツい腕時計を覗きながらそう言った。 「あの子はいい子だから、いい人が味方についてくれたら、いい闘いができると思うんだ」  ようやく高岡が目を見ながら言葉を発した。 「でも僕はまだ、彼の連絡先さえ知らないんです」  ようやく目的の話ができた。  彼女は考えこむように口を尖らせ、腕を組んだ。 「教えてやりたいけど、彼は知り合いが少ないから、きっと情報元が私だってわかると後々よくない気がする。いっぱい喋っちゃったけど、私に会ったことは言わないでくれないかな?」  無茶をいうが、頷くしかない。ならどうしたらいいのだろう。 「多分、あなたがちゃんと頼りがいのある人だってとこを見せてたなら、あっちから連絡してくると思うから、それまで待ってやって」 「…くるでしょうか?」  少し間が空く。 「私はたぶん、他の人よりも信頼されてた、と思いたい。そういう人とのいざこざがあったばかりで、同じこと繰り返すバカじゃない、と思いたい」 「…なるほど」と答えたが不安は残った。 「一応、新しい職場は恵比寿、住んでるところは高円寺、コールセンターは初台って聞いたから、その辺、ウロウロしてみては?」  感謝しつつも、そんな情報さえ聞き出せていなかったことを反省した。  どうしても、ダメだったときのために、彼女の連絡先だけ教えてほしいというと、渋々名刺を渡してくれたので、慌てて自分の名刺も差し出す。 「あー。名前も知らない男に、変な話、ベラベラしちゃってすんませんでしたー」  名乗ってなかったことに今更気付いて、彼女より深く頭を下げた。  

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