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19 シェアリ 三枝

 *  『シェアリ』に到着していつのように向野の席をみる。今日もいない。  自分の定番の席に向かおうとすると、そこに人が座っているのが見えた。取られたのなら別の席でと思うが、定番の席にいるのは、あの成金ずんぐりだった。なにかマナー違反をされている気分だ。と思いながら、向かいに座っている人物の後ろ姿をみて、まさかと思う。自然に足が速くなった。  成金ずんぐりは三枝と目が合うと腰を浮かせつつ、向かいに座る人物に何か語り掛けている。成金ずんぐりが立ち上がる前に、大股で近付いて声を掛けた。 「おはよう」  横に立って見下ろすと、 「あ、京さん、おはよう」  と返ってきた。名前で呼ばれることは初めてだ。ドキリとしながら、顔に出さないように「おはよう」と繰り返す。名前を呼んで親しさをアピールしたかったが、成金ずんぐりに教えてしまうかもしれないので、呼ばずにいた。  成金ずんぐりが立ち上がって、そそくさと逃げて行った。向野が胸を撫で下ろすように息を吐き、呟いた。 「…よかった。やっときてくれて」  セカセカと歩き、一番遠い席に座る成金ずんぐりを睨む。 「なんかされた?」 「あ、違う。エレベータで、あの人とたまたま一緒になって、話しかけられただけ」 「ホントに? なんか鬱陶しいこと言われたんじゃないの?」  奴の体温と臭いが消えるまで、その席に座りたくなかったので、横に立ったまま動かずにいた。 「なんか、言ってたけど、あんまり聞いてなかった」  笑顔を作ろうとして失敗するように、口が不自然に動く彼を見下ろしていた。見上げるのは疲れるとでもいうように、向野が項垂れる。少しやつれて見えた。白い首が細すぎる。 「座れば?」と言われ、 「今、これ以上離れたくないな」と答え、その場にしゃがみ、テーブルに両肘をついて向野を見上げる。  髪に触れたいと思う。撫でてやりたい。 「君の連絡先を知らない。今週、君に会えないのかと思って、それだけで辛いと思ったんだ」  向野は首を傾げながら尋ねた。 「…なにかあったの?」  そっちにあったのでは、という不安を抱えただけなのに、三枝を心配する配慮があることに嬉しく思う。首を振りながら答える。 「君に会いたくなっただけだ」  向野が、苦虫を嚙み潰したような顔で、窓の外に視線を逸らす。恥ずかしいと思うセリフなのだろう。同じ表情をベッドの上で何度かみた。撫でてあげたい。気持ちを圧して顔を見る。 「…疲れて見えるよ」  目の下にクマができている。 「…ちょっとね。納品したものにバグがあって、昨日今日と修正に追われてて」  向野のノートパソコンの画面右下に、ポツポツとポップアップが表示されることに気付いていた。状況を教えてくれたことが有難くて、向かいの席に座りながら仕事を優先にさせてあげた。 「今日、そこにいてくれるなら邪魔はしないよ」  三枝は持ってきたノートパソコンを開きながら、仕事する体制をつくる。 「ありがと。…ところで、『キョウさん』でよかった?」 「名前で呼ばれてびっくりしたよ。教えたっけ?」  頷きながら答えると、向野は目をぱちくりさせた。 「ここの会員証、見せてくれたじゃん」  ああ、そういえば、フルネームのサインをしていた。 「ちょっと怖かったから。三枝さんを特別な存在として、演出してみた」  弱々しい微笑みを見つめながら、思いがそのまま口をついた。 「特別な存在でありたいよ」  瞳が少し見開かれ、彼がなにか言おうとした時、テーブルに置かれた向野のスマホが振動した。許諾を求めるように向野の視線を感じ、返事をする代わりに三枝もノートパソコンを起ち上げ、画面に視線を集中させた。  向野はスマホを取り、小声で対応する。短い返事を繰り返し、承知しましたといって電話を切りノートパソコンに向かった。平常心で仕事に向かえるということは健全だと、三枝は思う。話したいことは色々あるが、場所的にも時間的にも、ここは仕事が優先だ。暫く、無言でお互いパソコンを相手にしていた。  カタっと音がして、視線を正面に向けると、向野が態勢を変える。左足を右膝にのせ、その上にノートパソコンを置いてキーを叩く。  考えるふりで口元に右手を添えて盗み見ると、向野の上体が揺れ、指先の動きが止まるのがみえた。眠りに落ちるまいと抵抗しながら、指を動かそうとするが、すぐに首が重力に負けてしまう。反動で起き、また指を動かすが、動作はゆっくりとなり…繰り返す。眠気と戦っているようだ。  前からそっと向野のパソコンを引き抜き、テーブルに置いた。はっとして向野が動く前に、バッグに入れていたカーディガンを膝に投げた。 「そういう時は寝たほうがいいよ。20分後に起こしてあげるよ」 「……京さん、俺…」 「うん?」 「…なんでもない」  向野はカーディガンを引き上げ、肩に掛けると、視線を合わせながらゆっくりと瞼を閉じた。微笑みを崩さないように見守った。  三枝も手を止めて少し過去を振り返る。向野と同じ歳の頃、自分はどうしていただろうか。同じように、どうしても勝ち取りたい仕事に対しては、寝る時間も惜しんで仕事に没頭していた。「24時間戦えますか」なんてCMが子どもの頃に流行った。そんな時代に戦っていた人たちからすれば、まだ楽な方だと鼻で笑われたが。  けれど、きっとその時代の人たちと違うのは、会社のためではなく、ほとんど人間が、自分のためだ。生活のため、経歴を活かすため、それから自分を試すため。これをやり遂げれば、任される仕事もあるだろうし、責任も重くなる。年功序列社会ではないだけに、差をつけるには戦うしかない。ゆとり教育で学校では競争をやめ、運動会でも1位2位とつけなくなったのに、社会にでれば否応なしに競争を強いられ怯むのだ。正当に戦おうとする者もいれば、いきなり足を引っ掛けて転ばせて、自分だけでも先にいこうとする者もいる。そんな競争を強いられる。  学校で教えられたことだけでは、社会に出ても生きてはいけない。大学を出ても仕事がない。スタート地点から焦らされる。酷い氷河期だ。苦しい就活を終えてやっと受かった企業でも、労働の辛さ、人当たりの強さに馴染めず一ヶ月で辞めてしまうものも多い。そもそもやりたいことなど特になく、与えられる仕事に意味を見出すことができないものが多いからだ。自分たちのように、やりたい仕事にありつける者を贅沢だという人もいるが、すべてが自由なわけでもない。のびのび、好きなことをして金に換えているわけではない。自由を勝ち取るために、いくらでもいつまでも戦っている。  5連続メールの子がまた、長文メールを送ってきていた。要約すると、上司まで呼びつけて会うのは構わないが、どうせなら他企業とも比べて、コストや納期も一度白紙にしたいという。フレキシブルに対応ができるから、コストは下げて自分にという話だったのに、勝手にコンペにされてしまった。フリーランスは、露骨に足元を見られる、企業と戦うのは難しい。今後のことを考えれば知名度を上げるために、安くても取りたい仕事だったが、コストの問題というより、不信感を突き付けられた気がした。さて、どうするか。  もうすぐ時間だ。そっと立ち上がって、ドリンクコーナーで冷たい水を入れて戻る。成金ずんぐりは、いつの間にか帰ったようだ。あいつは明かに向野を狙っている。危険だ。気安く相手をしないように、後で注意をしておこう。  コップを置いて、向野の肩をそっとゆすった。 「ん…」  そぉっと目を開けて、もう一度目を閉じる。 「眠い…」  寝顔も可愛いが、寝起きも可愛い。 「お水飲んで、目を覚まして」  カーディガンから腕を出して伸びをすると、向野は水を一気に飲み干す。自分用に持ってきたカップを右手で押し出し、掌を返して「どうぞ」とやると、「ありがと」と言って受け取った。  見ればみるほど可愛いと思う。ノートを閉じて、頬杖をつく。 「忙しいの?」  手に持ったコップの水を覗きこみ、少し身を乗り出して囁くように話し始めた。 「一昨日ね、起きたらお昼だったんだ。充電忘れて、スマホが鳴らなくて寝坊した」 「あらあら…」思わず漏れた声が、「おばさんみたい」と向野が笑う。自分でもおかしくなった。 「会社からいっぱい電話きてて、もう、とんじゃおうかなって一瞬思った」  とぶ、とは、最近では当たり前のようによく聞くが、会社に連絡なしに退職することだ。辞めるとも告げずにバックレてしまう。 「たかが寝坊で?」  口角が少し上がって、向野はまた水鏡を覗く。 「俺は“たかが”と思えない。用があって連絡してきてるのに、対応できなかった。実際、バグがあって一刻でも早く直したいって時に、電話に出ないって、酷いよね」  やはり自分を責めるのだ。 「…とんじゃおうって、思う方が酷いよ」  そういうと、こちらを見て笑った。 「三枝さんならそういうかな、と思ったんだ。電話するの、怖かったけど、頑張ってみた」 「正直に言ったの?」  頷く。 「クビかな、って思ったけど、心配するから連絡はしてって、怒られた」 「普通はそうだよ」  といって、高岡を思い出した。 『自分の思ってる普通と他人の思ってる普通って一緒じゃない』 「三枝さんも?」  今日はちゃんと目を見て話をしている。三枝は少しだけ、腰を前に出して近づく。 「水曜日、約束をしたわけじゃないけど、僕は君に会えると思ってたから、心配したよ。連絡先を知っていたら、多分、僕も連絡してた」  向野は膝に頬杖をつくと、しばらく身体を揺らし、伏目がちに「ごめんなさい」と呟いた。長い睫毛が揺れている。無意識に同じポーズをしているのに、どうしてこうも違うのだろうと、しばらく見惚れた。 「いいよ。こうして今日会えたし」  向野は手元のスマホ画面を撫でながら、「実物はすぐ…許しちゃう」ポツリと言った。聞き返すとなんでもないというように首を振りながら、割れた画面を指でなぞる。何か描くように…。 「ねぇ…」  ふいに腕で口を塞いで、向野がくしゃみをした。 「それ、着てなよ」話そうとしたことを飲み込んで、カーディガンを指さす。  頷いて、さてというように、向野がノートパソコンを引き寄せた。  仕事に戻るしかない。今更ながら、自分は彼の役に立っていないと思う。向野以上に前にでていない。言わんとすることを飲み込み、思慮深いふりをして、噛み殺していることが、頼りなさの原因ではないかと思う。もっと強気に、もっと強引に、自分のペースで思うことを伝えていたら、こっちに気を持たせるような言動をしていたら、もう少し、頼ってもらえただろうか。もう少し、力になれただろうか。比べるまでもなく、彼氏よりも自分との関係を優先してくれただろうか。  奪いたい、と思いながら、強引に行くことはせず、常に向野の気持ちと体調を優先にしていたことが、間違いだとは思わないが、味気ない気がしてきた。  一緒に住んでいた男に浮気され、去られた。その事実が臆病にさせていたということもある。浮気など許せないと、冷静になる間もなく終わったのは、安定した生活に慣れていた自分の甘さだ。  別れ話をしながらも、田中はどこか穏やか顔をしていた。こうなるのも仕方ないよね、と。『予報を裏切って、今日は朝から雨です』そんな風に、天気予報が急に変わっても仕方がない、という風だった。つまり、浮気される自分が悪いのだ。予報どおりではなく、突然の雷雨が欲しかったのだと言われればそれまでだ。味気ない男だったのだろう。そう思う。  けれど。 「一晩」と持ち掛けたのは向野だ。甘んじるつもりはないが、負担に思わせたくもない。その一晩で、好きになったのはこっちの勝手だ。向野は彼氏がいることを敢えて主張した。彼氏との関係を守りたいという意志だ。彼氏を越えられない存在だと言われたようなものだ。好きだと思うなら、向野の気持ちを乱してはいけないと思った。 『良くも悪くも味方がいれば、人ってなんとか戦えるんだよね』  高岡のセリフを思い出す。願わくば、味方でいたいと思う気持ちはエゴなのだろうか。

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