20 / 52

20 デートの誘い 三枝

「よし!」  といって軽快にエンターキーを押すと、祈るようなポーズで両手を顔の前で合わせ、目を閉じる。 「終わったの?」 「今デバッグしてもらってる。それでOKが出れば、ね」  急に、このふたりきりの幸せな時間が終わってしまうことを知った。 「この後は?」 「…ごめん、会社で打ち合わせ」 「次はいつ会える?」  答えがない。もう、水曜日も約束はできないのだろうか。目を閉じたまま反応がない。 「こ…」  スマホが振動すると、向野は即座に対応する。 「大丈夫ですか? よかったー」というとスマホを肩に挟んで、ノートパソコンの画面をスクロールしながら、何か確認作業をし始めた。  味方になりたいと思いながら、向野の行動頼みだということが情けない。力になりたいと思いながら、必要な時そばにいられないのだ。打開策はあるだろうか。向野にもっと、『会いたい』と思ってもらうほかにない。  ふと思い出して、鞄からハガキを二枚だし、向野の方へ差し出した。ノートパソコンを閉じた向野が、一枚を手に取り、眺めながら電話対応をする。 「はい、承知しました。今から戻ります」  電話を切るのを待って、説明をした。 「知り合いに貰ったんだ。個展をやるからって」 「…ちょっと変わった作風だね」  向野が招待状に使われている絵をみていう。確かに変わっている。何で描かれた絵か想像もつかないが、出っ張ったところがやけにリアルな電話。周りの闇がなにか傷ついたようにあちこちに線が見える。タイトルは『声』。 「ちょっと暗いイメージがあるから、どうなのかなって思ったけど…」 「え? 面白そうじゃん」  ハガキをひらひら振りながら向野が言った。 「そう? じゃあ一緒に行かないか?」  誘うときはやはりドキドキする。ドライブの話のように、瞬殺されることもあるのだから。向野はハガキをじっくりみながら、少し考えていた。この際だから聞いてみよう。 「週末のバイトって、具体的にいつやってるの?」 「え、ああ。金土の夜11時から朝7時まで」 「長いね。辛くないの?」 「仮眠時間が義務付けられてるから、人が思うほど大変じゃないよ。むしろ、規則的に眠れる唯一の時間だね」 「そうなのか…」 そう聞いてしまうと、負担に思えていた深夜バイトを、悪者にはできなくなってしまう。そんな詰込み過ぎの彼のスケジュールに、食い込んでもいいものだろうかと、少し躊躇いながらも云うしかない。前に出るしかない。 「日曜日、行かないか?」  ひらひらが止まって、向野がこちらをじっとみつめる。今更ながらに思うが、話していない時の向野の表情は喜怒哀楽に乏しい。話し方には抑揚があるのに不思議だと思う。 「僕と出かけるのは嫌?」  首が振られる。 「日曜日、予定ある?」  首を振らず、向野は窓の外へ視線を向けた。 「行こうよ。朝11時オープンだね。この2番出口で待ち合わせしよう」  頷いたのか、どうか? カクン、と音がなりそうなほど項垂れて、ハガキをスマホとノートパソコンの間に挟むと、「そろそろいくね」と立ち上がった。 「…送るよ」  荷物を置いたまま、立ち上がって後を追う。向野は丸めたエコバックを振り、乱暴に開けようとしている。それをひったくって、黙って袋の口を拡げてあげると、向野が手に持ったものを入れ、手をさし出してきた。無視するように、三枝はエコバックを肩に掛けた。受付嬢がにこやかに挨拶をすると、向野は声もなく頭を下げる。 「ここでいいよ」  声を無視してエレベータホールへ向かう。 「今朝の、あのヒキガエルの相手しないでくれる?」  成金ずんぐりより、分かりやすい形容詞で伝える 「…知らないよ。ホントに今日、初めて話しかけてきた人だよ?」  思ったより怒気がこもっていたのか、向野は言い訳するように返してきた。 「初めての人と対面に座って話しなんかするなよ。バーでは7人も振ったくせに」 「今更、そんな話出さないでよ」 「嫌ならもう少し、警戒心もってほしいよ」  ポン、と後ろのエレベータが到着を告げる。先を歩いて中に入り、駅通路階のボタンを押した。ノロノロとついてくる向野が乗るまで、エレベータの扉を左手で押さえた。 「気を付ける…。三枝さんがいつも、朝からいるわけじゃないんだね」  エレベータの扉がゆっくりと、必要以上にゆっくりと閉まるのを確認する。 「あ、これ、ありが…」  肩にかけたままの三枝のカーディガンに、手を掛けようとした向野をそのまま壁に押し付けた。唇を重ね、下唇を吸い上げた。向野の長い睫毛が瞬くのを頬で感じながら、歯列に舌を突き出す。開かれるのを待って、ゆっくり挿入する。右手で小さな頭を撫でながら、舌を絡めると、身体がピクリと動いた。 「…っ」  向野の頬が熱を放つのがわかった。唇を放して、間近で顔を覗き込む。真っ白な顔がうっすらと赤くなっている。 「僕が、君を好きだってこと忘れないで」  髪を撫でながら、もう一度、軽く触れる程度のキスをした。  ポン、と音が鳴り、エレベータが到着する前に警告音を鳴らした。身体を離して、カーディガンを受け取る。  扉が開くと外気が流れ込む。ムワッとした熱気と、狂気のような陽射しが、エントランスに満ちていた。遮光性もなんのその、そのまま突き刺してくるような陽射しは、まるで背徳者を罰するような痛みだったが、そんなものに怯んではいられない。 「日曜日、待ってるから」  そういってエコバックを渡すと、向野はそれを胸に抱きかかえ、赤い唇を噛み締めながら今度はちゃんと頷いた。 「気を付けてね」  そういうと、向野はまた頷き、駅への通路を足早に去っていった。

ともだちにシェアしよう!