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21 個展 三枝

     *  そういえば、世間は夏休みだ。テレビ局があるこの駅には、夏休みを満喫するために、家族連れが通り過ぎる。デジタルサイネージによると、今日の夕方から、アイドルイベントも開催されるらしく、何もかも写真に収める中学生らしい女子の集団がはしゃぎながら通り過ぎていった。8月最後の日曜日だから予想以上に人出が多いのかもしれない。駅のホームではラッシュアワーの時間でもないのに、凄い人波だった。待ち合わせの時間は5分過ぎている。  出口を登り切ったところで待っていた三枝だが、下にいる可能性もあるかと、慌てて階段を降りた。しかし、その周辺に向野の姿は見つけられず、不安がよぎる。強引に約束をしたが、来れない可能性だってある。なにより、暴君彼氏にバレたら、出かけることなどできないだろう。  電車がまた一本到着したのか、改札から人が溢れ出た。向野の身長くらい、明るい髪をみると、顔を確認しながら近寄り、通り過ぎる人を注意深く監視した。  ふいに奥の階段に目がいくと、向野が階段を駆け上がってくるのが見えた。  視線が合って、手を挙げると、うまく人をよけながら軽やかに改札を抜け、目の前まできた。心が躍る。 「ごめん、遅れた」 「大丈夫だよ。暑いんだから、走ったりしたら危険だよ」  いつもの全身黒ではなく、涼し気なカジュアルシャツにシンプルなジーンズだ。 「夏っぽい恰好だね」といいながら歩きだすと「夏だよ」と返してきた。  汗一つ掻かずによく言うものだ。 「三枝さん、色がない服ばっか着てるから、浮くのヤだなと思っただけ」  色がない。白や生成りが多いのは確かだ。 「僕だって黒い服くらい持ってるぞ?」  階段を上り切って、向野が日差しに手をかざす。 「あれは制服だよ、仕事のときは着てく服、考えるの面倒だから」  日陰を求めて小走りになる向野を追う。 「よく眠れたみたいだね」  後ろから声を掛けると、くるりと一回転して前をいく。…可愛い。  白に近い水色のシャツがふわりと揺れて、彼の身体のラインを完全に隠していた。ニヤけたまま顔が戻らず、向野の後ろを黙って歩いた。 「ここだよね」  高速道路の下を渡って、目的地らしいギャラリーの前で立ち止まる。ハガキを手に入口で立ち止まる。ガラス張りの向こうに受付らしい拵えがあり、店の大半を黒のパーティションで区切られていた。手に持っているハガキに気付いたのか、受付にいた女性が、重たそうな扉を押して挨拶をしてきた。 「ようこそ。ただいま4組のお客様がお待ちいただいておりますが、すぐにご案内できますので、どうぞ」  向野がこちらを振り返り、確認して店内に入った。記帳を勧められて三枝がペンをとる間に説明をされた。 「こちら、蛍光塗料を使った作品が展示されているセクションがございまして、暗闇になれていただくための小部屋がございます。一組様ごとにご案内させていただいておりますので、少々お時間をいただいております。暗いのは問題ございませんか?」  向野が適当に頷くのが見えた。 「そのあと、早朝をテーマとした少し薄暗いセクションになります。導線用に足元にLEDで床から光を照らしております。演出上、非常口のライトを消しておりますので、こちらでご確認ください」  ラミネートを渡して受付の女性は席に戻った。列の後ろに並びながら、向野がラミネートを差し出してきた。 「この中で地震とかあったら、逃げられないや」  部屋の見取り図で、入口・裏口を確認する。路面の小さな区画かと思いきや、かなり奥に長い造りで、2軒を無理矢理繋げたように、中央辺りでカクっと地滑りしたようにずれていた。裏路地に面した非常口がある。突き当りでUターンスペースとなり、二手に分かれていることがわかる。二手に分かれた一方は短い行き止まり。展示物が行き止まりに2つあることを示している。 「…嫌な演出じゃなければ、こっちにも行ける、かな」  周りに聞こえないよう配慮しながら、小声で向野が言った。成程、考えなしだったと思い、急に緊張した。 「あー。お化け屋敷みたいだったら、最短コースで出てもいいかな?」  向野が吹き出す。「ダメなの?」と小声で笑いながら聞かれた。 「チリン」と暗幕の向こうで音がして、思わず向野の腕をつかんだ。暫くしてから、暗幕と一体化していた黒いスーツの女性が、少しだけカーテンをめくり、一組を誘導する。ビクついて震える自分と、笑いをこらえて震える向野。なんだかおかしくて二人で声を出さないように笑った。  この個展の招待状は、たまに一緒に仕事をするインテリアデザイナーの女性から貰った。彼氏が個展を開くのだと。記憶が正しければ、その彼とは随分長いこと付き合っている。 「なんで結婚しないの?」  飲み会の席で詰め寄られている彼女を見たことがある。 「仕事が好きだからねー」 ダメなのよーと、女性とは思えないほど顔を崩して答えていた。  チリン、と鳴ってもう一組が進む。それが鳴ったら暗闇の先へ進む合図らしい。目が馴れるまで、暗闇に放置されるようだ。向野が何かを見つけて、壁際に顔を寄せる。作者のプロフィールと写真のパネルだ。黒ベースにほとんど区別のつかないグレーの文字だ。読ませようという気がないのだと思うと、無理してでも読みたくなる。  作家の年齢はほぼ同じくらいだ。海外での生活が長く、結婚を機に日本に落ち着き、絵画を始めた。ポップな作風で代表的な広告や雑誌などで取り上げられたらしい。  先に読み終わったのか、向野が一歩下がって身体が触れた。 『不倫発覚後、細君が鬱病を発し2年前他界…。』  背中を冷たい風に撫でられた。  この展示会の招待状をくれた彼女は、不倫相手だったのだ。「良かったら見に来て」何気ない感じで渡された招待状。これを受け取った人がどれだけいるかは、わからない。さりげなく渡されたが、さりげなく知ってもいい事だったのだろうか。気付かれないと高を括ったのか、バレても構わないと思ったのか。 『なんで結婚しないの?』  結婚はできなかったのだ。海外受賞作のタイトルが羅列している。国名を見て、彼女の旅行先の土産話と一致することに、気づいてしまった。視線を列に戻すと、触れていた身体が離れてしまった。  目の前でカーテンが捲られ、どうぞと言われた。 「目が馴れるまでこちらで待機してください。鈴が鳴ったら進んでいただいて結構です」  並ばされたが、自分たちの後ろに人はいなかった。ビビって進めなくても、迷惑をかけることはなさそうだ。向野に続いて入るとすぐにカーテンを落とされ、真っ暗になった。部屋の広さは分からない。真上から冷たい風が落ちてくる。見失う前に、向野が見えたあたりに腕を伸ばし、手を握る。 「大丈夫?」と言われて唸って返す。暗闇はまるでなにも見えず、このスペースがどのくらいの広さかもわからない。向野が退屈そうに身体を揺らし、リズムをとっているのがわかった。度胸があるようだ。 「チリン」と鳴ると同時に闇が歪み、腕を引っ張られる。向野がカーテンを開けて先へ進んだのだとわかった。  長い回廊の左に、ほのかな光の波が見えた。闇の中で、砂のような小さな光が散らばっている。濃淡はなく、集まれば集まるほど形をなす蛍光塗料のようだ。砂が徐々に線のように繋がっていくのが見えた。線の両端がわずかに膨らんでいる。どこかで見たようなと、考えながら、次第に線が太くなり、途中で折れたものや、粉々になって足元近くに落ちて見えるものもあった。大きな塊があり、横にあるのが肋骨だと気付く。そうか、今までに描かれていたものは骨だ。頭蓋骨があらぬ方向を向き、砂に埋もれている。  向野は、立ち止まらずに手を引いて先へ進む。突き当りの壁に「誕生」と白い文字で書いてあった。この作品のテーマだろうか。  角を曲がると、床の端にライトが埋められている区画になった。全体に青く、作品の前だけ、弱く白い光に照らされている。ずっと先の一角に、前の一組がいるのを認めると、向野の手が離れた。彼らはすぐに先を曲がって見えなくなった。  向野はちらっと作品をみて、先へ進む。「朝食」と題された絵は、何が書かれているのかわからなかった。次の作品も、クロッキーを何枚も重ねたような絵で、なんだかわからない。向野の歩調と変わることなく三枝も後に続いた。  一番奥にたどり着くと、夕焼けに染まる壁にカーテンが揺れている、写真のようなリアルな絵だった。開かれた窓の部分が夕焼けに染まっている。光の当たっていない壁は黒いが、無数のハートマークが書かれていた。なんだか怖い。暗がりに誰か佇んでいそうで、立ち止まらずに向きを変えた。「パスポート」とタイトルの白い文字が揺れた。色とりどりのパスポートの印鑑の色を思い出す。彼女と出かけた印は、陽の当らないものだと認識していたのだろうか。  このあたりが店の一番奥になる。折り返し地点だ。床のLEDは壁沿いに左に行くよう照らしている。真ん中の道は例の行き止まりで、壁が黒く、奥に絵があるかもわからないほど、ほの暗い光が灯っていた。  向野がこちらを見る。渋っているのがわかったのか、「見ようよ」と声を掛けられた。手を引かれて奥へ進む。  パネルがあるだろうところに、ライトが向いているが、何も見えなかった。黒い壁とパネルの堺が辛うじて見えるだけで、パネルの中には何の形も捉えることができなかった。タイトルは「お守り」。  向野が覗き込むように、パネルを見つめているのがわかった。彼には見えているのだろうか? 必死に絵を認識しようとするが、やはり、なにも見つけることができなかった。ふと、コンビニ前などに設置された、若者には聞こえるモスキート音で屯する若者を追い払う装置があるという話を思い出す。若者にしか見えないインクでもあるのだろうかと思うと、目を皿のようにして必死にパネルの中を見つめてみるが、やはり何も見えなかった。  向野に手を引かれて先へ進む。クイズの答えをみるように今度は先に、タイトルを確認した。 「恋人」  他の作品よりかなり大きな額だった。キャンバスの右端に手に取れそうな白い麻縄の束がある。スポットライトのように照らされた麻縄の束、光の堺も縄が伸びているのが見える。縄は緩やかに広がり、それぞれに違う暗い色が、絡まり、結ばれている。簡単にはほどけないほど、捻じれて、もつれて複雑な形になっている。暗い色の中でも識別できるほどに、こんがらがっていた。白い麻縄は立体感を持ってそこにあるのに、暗闇は手前にあるのか奥にあるのかもわからない。太くなっているのか、歪んでいるのか、また宙にあるのか、物質なのかも…。自分がタイトルをつけるなら「混沌」だ。なぜこれが「恋人」なのか。  後ろに下がって、向野の手を引いた。吸い込まれるように見入っている向野を引きはがす。行き止まりから早足で順路に戻ると、出口までは明るい作品ばかりが並んでいて、ほっとした。ほっとしながらも「恋人」とは何かを考えた。妻なのか、不倫相手なのか。  出口に近い付近に辿りつくと、前の一組に追いついてしまった。向野の手が離れる。彼らは、絵をひとつひとつ指指しながら朗らかに話していた。 「これ見てー。学生時代のドリンクのボトルになかった?」  会話することで浄化されていくみたいに、ひとつ進むごとに声を弾ませ、楽しんでいるようだ。  向野が彼らを追い越して、先に出口へと向かった。自然に後をついていく。受付に一礼して、そのまま外へ出た。

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