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22 暗雲 三枝
風が強かった。さっきまでなかった黒い雲が、西側の空に広がっていた。深く深呼吸をして前を見ると、同じように、向野もゆっくり息を吐きだしているところだった。
「これからどうしようか?」
向野にセリフを取られた。
「お腹はすいてる?」
「うーん、まだ、あまり」
言いながらぼんやりと歩き出す。なにか、へんな個展に誘ってしまったようで謝ろうかと思ったが、アーティストの個性を否定するのもよろしくない気がした。
「面白かったね」と向野が言った。
「え? そう?」と聞き返すとうん、と頷きながら、前を歩く。
「あの明暗って、時代で別れているのかな? それとも、同時期に描いてたのかな? 作品が年代順じゃないからわかんなかったね」
と向野がいう。タイトルを認知するだけで、年代までは全くみてなかったので感心した。
「行き止まりの『恋人』って、あれ怖いよね…。わざとかな?」
行き止まり、展示場所にも意味があったのかと気付かされる。
「…そうだね」
「光の当たるわずかな部分しか、人って結ばれないのかな…」
ふいに強い風が吹いて、細い向野の身体が飛ばされそうになる。慌てて手を伸ばすが、手が届く前に、向野が大きく踏み出して風を逃れた。ビル風だろうか。
「闇の部分があっても、繋がっていられるってことだと思った」
向野が振り向いて視線を絡めてきた。
「…なに?」
向野は前に向き直って、先を行く。
「手を、繋ぎたいと思った」
風が、向野のシャツの中で踊る。白い背中にふわふわと、羽根を生やして飛ばしてしまいそうだ。
「どちらかが女だったら、それは容易なことなのにと思ってたけど。俺たちより、あの作家たちの方が辛かったのかな」
前方から学生らしい集団がやってきて、向野が歩道の端へと避ける。誰が誰に話しかけているのかもわからないほど、嬌声が行き過ぎる。最後の生徒が行き過ぎると、向野はそれを振り返って眺めた。
「俺は、謳歌するものなど、ひとつもなかった。他人に憚らずできる行動も、言える言葉もなかった」
「向野くん…」
ビュッ、と音を立てて風が吹いた。路上のビニール袋や、小さな葉っぱが舞い上がる。腕を掴もうとすると、向野は一歩下がってそれを除ける。
「あの作家はどうなったのかな? 不倫がバレて、奥さんが鬱病になって自殺して…。片方なくなったからじゃあこっちって選べるのかな。長年付き合ってた不倫相手を恋人と呼ぶのかな?」
自分さえも傷つけるような言葉を、よくもそう簡単に口にできるものだ。三枝は怒りを感じた。引きつったように、片頬を上げた向野の瞳は、悲し気に見えた。
「ねぇ、恋人ってどっちのことだと思う」
「…不倫相手だろう」
「どうして?」
「結婚してても会いたい人でしょう。そっちと恋をしていたんだ」
それは自分の願望だろうか。向野は考えるように、目線を横に向けた。高速道路の下の幹線道路はガラガラで、タクシーがたまに通り抜けていくだけだ。
「不倫相手は性の捌け口で、本当のところは長年付き合った奥さんと、どうにか恋を結ぼうとしていたかもしれないよ」
長年付き合ったというところで、向野と向野の彼氏に置き換えられている気がした。高校時代から付き合っている向野と向野の彼氏。不倫相手は自分。
風が強くなって空が暗くなる。
「…性の捌け口?」
風は生ぬるい。黒い雲から、汚い色の縄が降りてきて、体中に結びつくような感覚だ。ぬめぬめと皮膚にまとわりつく。向野も怒りを抑えるように、細く息を吐きだして、震える声で言った。
「じゃあ、俺らの関係はなんていうの? …あんな、抱き方されて、忘れられると思う?」
突然の言葉に、心臓にナイフを突き立てられた気分だった。向野が唇を隠すように手の甲で押さえつけると、向きを変えてと早足で歩きだす。
「待って、こう…」
「きゃあ!」
すれ違おうとしていた女性二人組が立ち止まり、口元を押さえて、向野を見ているのがわかった。興奮気味に「うそ、マジ?」「でも、そうだよね」と言葉を交わしながら、どんどん興奮が増してくるのが、手に取るように分かった。前を行く向野がさらに足を速める。
「やだ、行っちゃう。声かけようよ」と小声で相談するのが聞こえる。大きな交差点で立ち止まった向野に、彼女らより先に追いついたが、すぐ後ろに、彼女たちのペタペタというサンダルの音ついてきた。
正面の信号はまだ赤だ。右は青点滅を始めている。タクシーがのろのろと近付き、見切り発車に合わせようと前進してくるのが見えた。
「あのぅ、すみませーん」女の髪が腕に触れた。向野の肩に顔を寄せて横に引っ張る。
「走れ」
向野の肩にぶつかったが、構わず走りだすと、態勢を崩しながらも彼も走り出した。点滅は終わり、三車線の真ん中で赤に変わっていた。後ろでタクシーのクラクションと、彼女らの悲鳴が聞こえた。途中で向野に追い抜かれる。反対車線を渡りきる時、左折してきたバイクが止まってくれた。
一本路地に入ると、車一台分もないほどの狭い道ばかりだった。豪華な家並みが並んではいるが、区画整備されることなく開発された町は、細い道が入り組んでいる。出鱈目に走って路地を行くと、行き止まりの道だった。T字路に戻ると、大通りの方から彼女らの嬌声がまた聞こえ、こちらに向かってくるのがわかった。逆へ走って、左に折れる向野のあとを追う。
「知り合い?」
三枝も一緒にまかれてしまわないように、後ろから声を掛ける。
「バンドのおっかけ」早口過ぎて、理解するまで時間がかかった。走った先に『私道につき行き止まり』とパイロンが、どまんなかに置かれていた。向野が蹴り上げて、また左に折れる。
「いた! こっちぃ!」さっきよりも声が近くに聞こえ、慌てて向きを変えて走り出す。切羽詰まるとろくな結果を生まない。余裕を持たせるように、話しかけた。
「アマチュアながらも、おっかけがいるとはスゴイね」
適当に走るのをやめ、向野は路地の十字路に立つと、先の長そうな道へと折れた。走る彼に必死についていく。ジョギングで鍛えてなければ、とっくに置いて行かれていただろう。
「ああいう輩は、手の届きそうな虚構のアイドルが好きなだけだ」
バツッっと額を何かに撃たれ、空を見る。雨だ、と気付くのと同時に、大粒の雨が路上を叩き、一瞬でアスファルトが黒くなった。
「チッ」
向野が舌打ちをする。周辺は大きな屋敷と大使館ばかり。走ることをあきらめた向野がガクリと身体を丸める。背中に雨が刺さり、シャツの色が変わる。
遠く後ろの方で、彼女らの声が聞こえた。
二人の時間をこれ以上、邪魔されたくない。向野の手を引いて、大使館の壁伝いに歩く。角を曲がると、門が大きく開かれているのが見えた。緑に包まれた広い庭が見える。車が出たところか、これから出るのか。門扉横に、普段は門番が居るのだろうか、柱に人一人が立っていられるような窪みがあった。そこに彼を押し込めた。大きな南国の木が、門前に設えてあり、この角度から幸い道路は見えなかった。雨に打たれて枝がうなだれ、二人の味方をしてくれるようだ。そうでなくても、雨が激しく降りしきり、視界はほとんどないに等しい。息をするのも苦しいくらいだが、三枝は息をひそめて、微かな音に身構えた。
バシャバシャっという音が近づいてきた。向野の前に立って狭いスペースに身を潜めた。すると向野がヒュッと息を止め、胸に顔を埋めた。あんな会話のあとだ、拒絶しようとしたのかと思った。
「サイアクーぅ。見失ったわー」
びしょびしょの一人が路上に座り込んだ。もう一人は彼女を追い越して先を行く。相手にされない女が立ち上がって喚き始めた。
「マジ意味わかんなーい。なんで逃げるのよー」
喚き声は雨にかき消された。二人が遠のいていくのがわかった。ほっとして、向野から離れて外に立つと、向野はしゃがみ込んだ。向野の手が、中途半端に浮いているのが一瞬見えた気がした。まるで、三枝に抱き付くように…。
「ドウシマシタ」
声を掛けられて、驚いた。傘をさした黒人がすぐ近くに立っていた。大使館の人だろうか。
「すみません。急に降られて…」と言い訳をしてみる。ずぶ濡れの三枝越しに、蹲っている向野を見ると黒人は、手を広げた。
「オ困りデスカ?」
「…タクシーを呼んでもいいですか?」
こういうところで、そんな厚かましいことをしていいものか躊躇ったが、どうすることもできない。すると彼はまた手を広げて、
「オウ! 私ガ呼ビマスヨ」というとスマホを出して、英語で話し始めた。
こんなずぶぬれの客を、タクシーが乗せてくれるとは思えないが、こういうところの人に利用されるなら、文句も言えないかもしれない。
お言葉に甘えて、すぐに来たタクシーに向野を押し込むと、親切な彼にお礼を言って、ずぶぬれの身体を後部座席に入れた。
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