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26 平凡な食卓 向野

     *  うとうとしていたかと思い身体を捻る。身体の節々が痛い。  ゆっくりと瞼を開けると、部屋全体が黄昏色に落ちていた。うっすら開けたカーテンの向こうで、ベランダに干されたシーツがパタパタと揺れている。いつの間にか、晴れたようだ。うとうとどころではないようだ。  寝室から音を立てないように顔を出す。 「よく眠れた?」  キッチンの方から声が聞こえた。 「……」  声を出そうとして、喉が渇れていることに気づく。ひどく泣いたし、叫んだ。意地悪されたことへの感情より、今自分が恥ずかしい顔をしていないといいと思った。目をこすりながら、洗面台に向かった。  ダイニングに戻るとグラスを手に、三枝がテーブルへ移動する。寝間着代わりに借りたシャツの袖をめくりあげながら、釣られるように傍へ進む。テーブルを眺めると、サラダやピンチョス、ステーキと、いつの間にやら作られた料理で埋め尽くされていた。眠りに落ちる前に、腹はあまり空いてないといったが、匂いを嗅いだら、食べられそうな気がしてきた。椅子に座ろうとすると、クッションが渡された。敷いて座る。  当たり前のようにウーロン茶がグラスに注がれる。 「…飲んでいいよ」  というと、三枝が首を振った。 「送るから」  なんて断ろうかと、考える前に、 「家の前までとは言わない。誰にも見られないようにするから」  と言われた。反論できずにピンチョスに手を伸ばす。アボガドとまぐろとピクルスだ。まぐろはしっかり漬けになっている。隣はなんだろうと、口に入れるとチーズとオリーブ、コリコリした薄いものがある。 「…なんだっけ、これ?」 「いぶりがっこ」  と応えながら三枝が肉にナイフを入れていた。それは、なんだったっけと思いながら、同じように肉にナイフを入れた。疲労感とは違う気だるさは、幸せというに相応しい感覚だ。 「…でも、俺さ」と呟いて、「なんの続き?」と笑われた。 「あ、さっきの。内容がわかなんないの、とか、京さんと行くの、好きかも、って思った」 「…なんで?」  三枝が動きを止めるのを無視して、肉を切り分けながら言った。 「なんか、用意されてない話題から、二人で話ができるっていいな、って思っただけ」  ステーキは、店で出されるような立派なものだった。外はこんがりとしているが、中は程よく赤く、噛むほどに肉の甘味が口に広がる。肉の弾力を確かに感じるのに硬くもなく、柔らかすぎることもなく、溶けてなくなるように喉を通っていった。 「うわ、これ、凄い美味しい」  ありがと、と言いながら、三枝は向野をぼんやり眺める。 「『お守り』ってあったよね、あれ、どう思った?」  と聞かれ、「好きだよ」と答えた。 「僕には、あれ、何も見えなかったけど?」と三枝が言うので、顔を上げた。 「ああ、やっぱり。視線の高さで、あれ、見えないようになってたんだね。真っ正面でみたら何もなくて、10センチくらい屈んだら、針で傷つけたような線がみえたんだ」  何かを摘まむような形で手を持ち上げる。カッターで紙を直角に切るのと角度をつけて切るのでは、光の加減でラインが見えないこともある。繊細なパッケージデザインをする人の話を思い出して、見る角度を変えたのが正解だった。 「コンパスみたいな、両方尖っているやつ、女の人の手が持ってる絵だった。あれ、なんていうんだっけ?」 「…デバイダー、だね。製図で使うんだよ」  ふうんと向野が頷く。 「インテリアデザイナー…も使うものだ。細君の職業は知らないが、彼女のものかもね」  そういわれて、ようやく気付いた。三枝に招待状を渡した人は、作家本人かと思っていたが、作家の彼女で、不倫相手と呼んでいた方だろう。 「君もお守りって持ってるの?」 「え?」  失言をしたような気がして、変にトーンが上がってしまった。 「好きっていうから、共感したのかと思ったけど?」 「ああ…そうかもね。うん」と納得して、続けた。 「俺のは、スマホの中。誰にも、見られないように隠してある」  まさか、盗み撮りした貴方の背中だとは言えない。が、スマホの中と言えば、写真かメール、予想はつくだろう。恥ずかしくて目が泳ぐと、三枝はそれ以上聞いてはこない。しつこくないところは好きだが、時々もどかしく感じる。ベッドでの意地悪な感じで責められれば、貴方の写真ですと白状する。それをお守りに、いつも話かけてるのだと。 「そういえば、君の両親は?」 「ええ?」  瞑想をぶち切られ、急に飛んだ話題に思わず声を上げてしまう。ウーロン茶を飲む。まさか、親の写真だとでも思ったのだろうか。 「…ごめん、唐突だったか」 「別に。母親は小学校の時出てって、放浪癖のある父親は、忘れた頃に会いにくる程度だよ」  そっけなく言い放ち、違うピンチョスに手を出した。 「だからおばあちゃんに育ててもらった。京さんは?」 「うちは平凡な家庭だよ。四国で育った」 「へぇ…」  サラダをとりわけながら、平凡という言葉が引っかかった。考え込んでいることを見透かされないように、皿を三枝の方に渡すと、変わりの皿を三枝が突き出す。トングでいつの間にか摘まんだ分を乗せて、自分の方へ置いた。 「何?」  三枝が礼をいう代わりにウーロン茶を注ぎ足してくれる。 「大学時代にね…。ゲイが生まれるのは、家庭環境の悪さだって言われたことがある。バレてたわけじゃないけど、そんな風に探りを入れてくる人がいた」 「…心無い人が多いね」  頷きながら、サラダを口にすると青臭い苦みが口に広がった。三枝はレタスをつつきながら続けた。 「僕の母は病弱でずっと床に伏してたな。父は仕事人間で、殆ど家に帰ることがなかったから、寂しさを噛みしめながら育ったよ。それを、環境が悪いと言われればそれまでだけど、僕は、平凡だと思ってる」  それとは気づかないほど刻まれたセロリが、まだ飲み込めずに口の中にいた。 「…ごめん。そんなつもりじゃなかった」  平凡といいながら、どこかで苦労してきた過去を人は隠しているものだ。 「例えばさ、とてもよくあたる占い師だって紹介されていくじゃない。悩んでいた家庭環境のこと、恋愛のこと、仕事のことを当てられたとかいうよね。そういう確率の問題で当たるようなこと、僕は信じない。  他所より不幸に見えたとしても、健康なのに両親は毎日喧嘩してるとか、幸せそうにみえるのに、実はどちらかが不倫してるとか、当たり前のようにあることだと思う。あてずっぽうでも当たるようなこと、どれが一番不幸とかじゃなくて、平凡だと、僕は思う」  どちらが不幸か、目の前で喧嘩する両親と、仲良しなのに裏切り合っている両親。子どもを捨てた自分の両親と、そこにいるのに甘えられない両親と…。『普通なんてない』そう言った高岡のことを思い出す。普通じゃない自分を卑下すると、あの人は大概怒った。  適応障害だとか、アスペルガーだとか、ネットに載っている情報では、誰でもいくつかの条件に当てはまる。話の関連性がわからないことで、適応障害だと指をさされた。でも、話の途中でふいに怒りだす人の方が、もっと重症だと思った。わかってるふりで、マニュアルの応答をしているだけだから当然だ。人を思って吐いた言葉など数少ない。『平凡』で終わらせようとした三枝の心を抉ってしまったかもしれない。 「よけていいよ、セロリ」  シャリシャリと前歯でかみ続けていたのを見られて、はっとして目を見た。 「頑張ってるけど、嫌いでしょ?」  三枝は笑っている口元を隠して言う。 「…嫌いなものでも、出されたものは食べるもん」  笑っている顔を見てほっとした。それくらいで三枝は怒らない。

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