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27 恋の終わり 向野

 三枝のいう平凡と、高岡のいう普通は同じなのだと思った。  依頼された仕事は終わったのに、終わったかどうか伝えられなければわからないと怒られた時、なんて屁理屈言うんだろうと頭にきた。こちらに非はないのに、全社員の前で、常識知らずだと叩かれた。嫌がらせをいう人だからすぐに敵だと思った。  「ハサミを貸して」と言われて、必死に探したけどなかった。けれど、筆立てにカッターが差してあるのをみて、教えてよと怒られた。ハサミとカッターが一緒の役割だという考えはなかった。それは俺だけ独特の考えなのだろうか? ごく一部の変わった受け止めなのだろうか? 「だからね、そういうの適応障害っていうの。関連性とか、創造性がないって、社会生活不適合者ってことなの」  病人だ、頭おかしいよと言われた。  欠陥が多いことは自分でもわかっている。それでも、迷惑かけないように、必死に対応しているつもりだったのに。働けない人間だと、認めたくない。この生活を守らなくちゃならない。年老いた肉親に迷惑はかけたくない。  別の環境でやり直してみる。言われる前にフォローできるように、会社ごとに違うだろうから、1から10まで作業の流れをあらかじめ聞いた。幸い、タスク管理はアプリを使っている会社だから、下手すれば、一日誰とも話さなくても大丈夫なんて言われて、そういう方が自分に合っている気がした。今後、もし失敗しても、こういう会社なら大丈夫だと思った。PCを通して話をするテレワークやSOHO、むしろ人の口約束よりすべて証拠を残すツール越しでしか会話しない仕事の仕方、それがいいと思った。  公園に集まって、SNS越しに喧嘩する女子高生、そんなことがニュース番組で驚きを持って伝えられたが、それが普通という人も今後増えてくるのだろう。ひと昔前はメールで仕事依頼なんて失礼とされたが、今は電話で用件をいう奴を容量が悪いと批判する人もいる。遅刻の伝達も、電話するために一度電車を降りてさらに遅刻するより、社内でも気軽に連絡できるショートメールやLINEにシフトしつつある。時代は変わる。もう少し耐えればいい。  人と話すときは、コールセンターで覚えたマニュアルを活かしてみた。  何が原因かはさておき、まず謝ると人は怒りのレベルを下げる。マニュアルでは裁判沙汰を避けるため、商品や会社の対応について謝ることはせず、まず不快感を与えたことや、対応が悪かったことを謝る。本質から論点をずらし「謝罪」という目的を達成させることで、優位に立たせてやるのだ。それから、相手の云いたいことがなくなるまで人の話を聞いてやると、大概の人は満足する。次に、原因をさけるように、対応策をいくつか提案し、こちらの対応に不足はないと思わせる。最後に重ねてお詫びをすることで、いかにも相手の意見が通ったかのように錯覚させる。    * 「世の中は、それで大概切り抜けられるよ」  思わぬところで再会したのは、あのイジメを終わらせた、背の高い男だった。 『くだらねーことしてんじゃねーよ』  アツシの前に出て、イジメに加担していた者を、次々となぎ倒した背の高い男を、向野は忘れていなかった。コールセンターのバイトで偶々再会した。  アツシの友だちだと思っていた。アツシの意思を受けて、行動したのだと思っていたが、学年が変わると、彼はアツシの近くにはいなかった。彼のおかげで助かったのに、すっかりヒーローになったアツシを彼は嫌っていた。 「典型的なお山の大将さ。えばり散らすだけで、なにもできない男だよ」  当時は、自分が支えて、好きでそばにいる男をけなされて腹が立ったものだが、度々休憩時間に会っても、決して話しかけてこない彼が、逆に気になってしまった。 「僕は、集団生活できない人間なんだ」  黙って彼の隣に座るうちに、ポツリと彼が言った。 「いいね、って簡単に人はいうけど、一人で考えていると、いいねなんて思わないことが多いんだ。それでもきっと、誰かがいいねというだろうと思えばいいねというし、いいねって言ったほうが、その場は平穏に過ごせるだろうとか、そういう、空気のための言動が気持ち悪い」  同じだ、と思いながら、黙って受け流した。  集団の心理は自分にもわからない。アツシの思いも、会社の人の思いも、わからない。 「それでもマニュアルの通りに受け答えすれば、差し障りはない。本心など必要ないんだよ。誰もね、何か口にすれば、本心かどうかなんて聞いてこない。余程、常識から外れたことをしなければ、異端だとは思われないんだよ」  彼は3年ほど働いて、アルバイトなのにチームリーダーになった。信頼されて、相談されても笑顔で受け答えしていた。彼をまねているつもりだったのに、向野は何度も転職に失敗した。彼と自分の違いは何か、相談したことがある。 「まず、自分を理解することから始まると思うよ」  とても適当な答えだと思った。向野は嫌というほど、自分を知っている。自分の欠点を理解している。 「それから、負担を避けた方がいい。会社に馴染もうって時に、アツシの我儘に振り回されてサボっているようじゃだめだよ」  アツシのせいではない。 「なら、アツシのせいにしている」  ドキっとした。 「たかが遅刻で、こいつには仕事をまかせられないと言われたら、そこからもう努力はしない。アツシのせいで寝不足で、いいアイデアも出せなかったら、そこでおしまいだと思っている。あいつが原因でと思うなら取り払えばいい。  でも、そうしないのは自分自身に問題があることを、見ないようにしているだけだ」  その通りだと思った。けれど、アツシに必要とされているからこそ、今の自分があるのだと思った。 「誰のおかげで普通の暮らしができてると思ってんだ」  詰られると、確かに、自分の”ものさし”はアツシだった気がする。二人の暮らしを守るために、社会からぎりぎりはみ出さずに生きてこれたのかも、と。  不在がちなアツシは、たまに帰ってくると暴力を振るうようになった。  自分の心が、アツシから離れようとしていることを覚られているみたいで、謝った。機嫌が直るまで謝って、命令に従った。そうすると、乱暴して悪かったと彼は必ず謝ってくれた。二人で猫と遊んだりして、平穏に過ごすこともあった。  だから……。  恋の終わりとは、どこの地点をいうのだろうか。  気持ちが薄れた時? ほかの誰かを好きになった時? 別れ話が終わった時? 別れて、思い出さなくなった時?  自分は今、どう否定しようにも、三枝が好きだ。三枝といる時間を大切にしたいと思っている。先程、三枝と身体を重ねて、強くそう思った。  だから、アツシとの恋を終わりにしなければいけない。色々、間違いは多かったかもしれないけれど、あれは確かに初めての恋だった。最近のアツシは疲れてみえる。修復しようのない二人の仲に、先に気付いていたのかもしれない。終わりにしようと言ったら、わかってもらえるのではないか。  食後のコーヒーを、三枝と二人で飲んだ。あまり言葉を交わさなくても、安心して居られる。ソファーで寄り添いながら、しばらく過ごした。 『その恋は終わりにしよう』  その通りだと思った。 『僕の元へおいでよ』  そっと手を伸ばすと、三枝は強く握ってくれた。こんな出来損ないに、愛される資格はあるのだろうか。存分に愛されたあとでも不安は過る。 「…ねぇ」  三枝が何と聞く代わりに、目を合わせてくる。 「俺、ホントはアスペルガーかもしれない…」  三枝は少し眉間に皺を寄せる。 「だとしても、恋愛ができないわけじゃない。生活できないわけじゃない」 「いつか、破綻するかもしれない」  三枝はコーヒーカップをテーブルに置くと、身体の向きを変え正面から視線を捉えようとする。やはり言わなければよかったと、目線を落とすと、握られた手が三枝の太腿の上に寄せられる。 「だとしたら、僕にも欠陥があるってことだ。君だけのせいにはならない」 「……?」  言葉を選ぶように少し沈黙し、ゆっくりと三枝が話す。 「人は誰しも不安を抱えているよ。僕だって、話足りない、肝心なことがいつも後回しになっている。コミュ障だって言われれば否定できない。でも、そんな僕でも君に頼られている。  僕も君を頼っている。補い合える人がいれば、そんなもの、問題じゃないと思う。人でも会社でも、一緒だと思う」  冷たい指先が三枝に握られて熱を覚える。そっと右手が乗せられて、ゆっくりと顔を上げた。三枝の視線も、重ねられた手を見つめていた。自分に伝えるためではなく、三枝本人の中の答えを探すように、話しているのだと感じ、同じように視線を握られた手に戻した。 「恋愛は、どちらかが頑張って、引っ張っていくもんじゃないと思う。仕事もね、誰かひとりが支えている会社はいずれ傾くけど、支え合える人がいれば続くでしょ。一緒に、同じ方向に進もうとする人がいるなら、協力しあって、好きなペースで進めばいいんじゃないかな」 「…遅くても?」  三枝が深く呼吸する音が聞こえて、また目線を上げる。やはり笑っている。三枝が好きだと思った。 「ゆっくりでも、立ち止まってもいいじゃない」  指先に力を入れると、三枝と目があった。握られた手が動き、指の間に指を絡められる。力強さと温かさが、嬉しくてたまらない。  手を伸ばせば、この手が捕まえてくれる。それだけは間違いがない。

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