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29 アツシ 向野
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「わ! ヒカル」
せっかく作った原稿が、台無しになった。猫のヒカルがキーボードの上を出鱈目に歩いたからだ。抱き上げて膝に乗せると、触るなとでもいうように暴れ、飛び去った。今週からまた新しいサイトの企画に参加することになった。今日のレジュメを確認しながら、サイト構造を作っておきたかったのだが。午前一時を回っている。そろそろ寝るしかないようだ。
キッチンに戻って太夫の前に座る。
最近は全くエサを食べなくなった。一度、病院へ連れていったが、ストレスでしょうと言われ注射を打たれた。専用のエサを貰って与えているが、口にしない。何でもいいから食べてほしくて、いろいろ試してみるがどれも効力がない。変わりにヒカルが横取りをする。
昨日、自分は三枝と会って、幸せな時間を過ごしてしまったことを申し訳なく思う。太夫を抱えてベッドに入る。クーラーをつけているから、暑苦しくはないだろう。丸まった背中を撫でながら、眠りにつく。ズシっと足元に重みがあった。ヒカルが乗ったのだ。やはり太ったなと、ため息をつき、太夫が目を閉じるのを待つ。
「話しがしたい」
あの同窓会後も、言いつけを守ってLINEメッセージを送っていたが、既読にならないので、先週で止めていた。いっぱいいっぱいで忘れたのだが、もういいやとも思った。
昨日帰ってからも「話しがしたい」と送ったが、既読にはなっていない。
三枝が一緒に戦ってくれるといった。勇気が消えないうちに、話し合って終わりにしたいと思ったけれど、相手が現れないのではどうしようもない。明後日、三枝に相談してみようか。
アキレス腱にゴツンと音がぶつかる。ヒカルが寝返ったのだ。
『ヒカル』という名前は、自分のバンド活動名だ。バンドはアツシがやろうと言って、高校から始めた。もともと色素が薄い。髪の色のことで学校では教師から敵視され苦労したが、初めてそれが好きだといったのもアツシだ。
「きれいな髪じゃん」
そう言って撫でられた。
「オマエ、今日からヒカルな」
彼に名付けられた。猫にその名前を上げたのは、アツシに呼んでほしいからだった。いつからか、自分はオマエとしか呼ばれなくなっていた。
*
汗びっしょりになっていることに気付いて、目を開けた。手の中にいた太夫がいない。起き上がるとキッチンに蹲っていた。
酷く暑い。エアコンに目を向けると止まっていた。タイマーを掛けたつもりはないが、リモコンを探って点けようとするが、反応がない。スマホで時間を確認しようとすると、眠る前にみた電池量から増えていない。朝6時前だ。テレビの電源の赤ランプも消えている。電気が止まっている?
ぼやけた頭で考えようとするが、頭が働かない。そういえば、最近、郵便物がひとつも来ないことを不思議に思っていた。一度会社を辞めているのだから、6月には保険や税金などの区役所からのお知らせが来るはずだった。すっかり忘れていた。
ノートパソコンを開くと、昨日作業途中のまま寝てしまったことを思い出した。幸いこちらは会社で充電していたので、使えそうだ。
「電気 止まる」と検索すると、督促を無視すると最短2か月で止まるとあった。督促? 恐らく郵送だろう。郵便物は、アツシが持ち去っていたのか、それともどこかへ転送されているということか。家賃も公共料金も口座から自動引き落としだ。毎月不足がないように、口座に入金をしているはずた。ネットバンキングの手続きをしていなかったことを後悔する。
通帳を引っ張り出して記帳しにいくか。汗を搔いてぐったりしたせいか、身体が思うように動かない。立ち上がろうとした時、不穏な足音が近づいてくるのが聞こえた。ズッズッと踵を引きずるような足音は、ドアの前で止まった。鍵が開けられ、ドアが開く。
「うわっ。なんだコレ、あちーな」
靴を脱いでアツシが入ってきた。金髪の根本は黒くなり、以前みた時よりもさらに、病的な顔つきをしていた。パソコンを見ないようにそっとワークディスクに戻し、後ずさった。
「今朝いきなり、電気が止まったみたいなんだけど…」
呆然としながらも、自分の声が出ていることが不思議に思えた。
「ああ? そりゃヒデーなぁ。こんな真夏に電気止められちゃったら、死んじまうわなぁ」
アツシに引っ張られてベッドに座り、肩に腕を載せられた。据えた匂いがする。酒とタバコと、…ガード下の段ボールハウスを通る時のにおいと、飲食店のごみ箱のにおい、嫌な臭いのすべてが主張している。普通に呼吸するだけで涙が出そうだった。
「…郵便物、来ないんだけど」
「ああ? 出所してから、俺が定宿にしてるとこに転送してっから」
「……出所? 出所って何?」
暑いせいか、臭いのせいか、息が止まりそうになった。
「いやいや、間違えた。留置つーんだよ」
何が面白いのか、反り返ってゲラゲラ笑う。
「な、なに言ってるの?」
アツシから離れて立ち上がろうとすると、脚を掴まれ引き倒された。
「おい、おいっ! 今、俺から逃げようとしなかったか?」
声が乱暴になる。窓が閉まっていて助かった。カーテンを開けておけば良かったと後悔する。薄明りの中で、アツシが後ろのポケットから何かを手にして、口元に持ってきた。
「オマエとキメようと思って、とっといたんだよ」
ぐっと唇に何か押し付けられた。ベトベトとした指が口元で動く。
「オラ、飲めよ。ほら、口開けろ!」
震える歯をこじ開けて、指が突っ込まれた。舌になにか乗せられたのがわかった。震えが止まらない。飲め、飲めと言われて、唾を飲み込んだ。咽喉に硬いものが落ちる。
「飲んだか、どら。口開けろ、舌上げてみろ」
顎を乱暴に引っ張られて、喉を何かが通りすぎた。アツシがゲタゲタと下品に笑う。
「オメーが暗いから悪いんだよ。そういう上等なのは高ぇんだから、電気代くらいでケチケチすんな」
そういって額をはたくと、アツシはベッドから降りて、持ってきた袋をひっくり返した。笑い続けている口の端から涎をこぼしながら、指先に赤い紐状のものを引っ掛けて突き出した。
「オマエに似合いそうなの、持ってきてやったから。ほら、つけろよ」
女性ものの下着だった。早くしろと蹴られて、身体に着けると、アツシが笑いながら、散らばった菓子パンを引き寄せる。「俺って頭いーよなぁ」といいながら、袋からパンを取り出すと、ブラジャーの中に押し込んだ。二つずつ押し込めると、隙間がなくなった。笑いながら、ぐちゃぐちゃとブラジャーの上から揉む。形を整えるようにして、満足気に笑い、服を渡された。
「10数えるうちに支度しろ」
震えながら黒のブラウスと黒のスカートを身に着けた。膝上までの艶やかなストッキングが、汗で丸まりうまく履けず、片方が少し破れた。
アツシが向野の財布から、現金を引き抜くとポケットにしまう。カードを一枚ずつ確認し、一枚持って詰め寄っていた。
「オマエ、やっぱり家賃とかのと別に、金隠してやがったな」
「そ…れは、会社で、口座を指定されたから…」
事実だが、何年も前だ。すべてを入れてしまうと、生活費を使い込まれてしまうので、決まった払い以外は別にするようになったのだ。
「イクラあんの?」
わからないと首を振る。
「性転換しろよ」
「……っ」
耳を疑うような言葉を投げられた。腕を引かれて立ち上がる。スカートが思った以上に短い。
「なぁ、俺のオンナになれよ」
胸の菓子パンをアツシが揉んだ。甘い匂いがふわりと上る。アツシが後ろに回り笑った。
「風が吹いたら、見えちゃいそうだな」
しゃがんで、もっと汚い笑い方をする。
「全部、見えちゃうぞ。パンツの意味ねーなこれ」と手を伸ばしてフリルのレースをはじいた。
「煙草、買いにいこーぜ」
アツシに腕を引っ張られて抵抗する。
「ヤダ!」
向野は青ざめて抵抗した。
「ダダこねんなよ。ここで時間かかると、オマエ、ラリったまま街中歩くことになんぞ」
頭が真っ白になった。
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