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30 狂気 向野
※暴力的なシーンがありますので、苦手な方はご遠慮ください。
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会社に行くだろう人が、ぎょっとして道を空けた。アツシは路上で寝てたかのような、汚れたシャツを着ていた。胸や膝には吐いたものがこびりついているようだ。こんな浮浪者然とした男と、女装のカップルが商店街を歩いていたら、誰でも避けるだろう。
できるだけ、誰とも目が合わないように、スカートの裾を引っ張って歩いた。アツシと似たような恰好の、本物が近寄ってきて笑った。
コンビニに入ると、アツシはお酒のコーナーに行ってしまった。店員は入ってきた瞬間から、アツシを注視しているので、人気のない通路に隠れた。
ざわっと、太腿に何かが触れた。
「っ…!」
声を出そうとしたが、出なかった。いつの間にか、後ろに男が立ってた。指がスカートの中に入り、剥き出しの尻に手が触れた。
「…マジか」
耳元で声がした。若い男の声だった。尻を包むように手を添えられ、撫でられた。急激な恐怖を感じて声がでない。黙っていると得体の知れない手は大胆にも両手で触れ、双丘を開くように指をずらしてきた。嫌だと声を上げたいのに、喉はひゅっと鳴るだけだった。
ヒモのような下着の下に指を入れられた。震える手で、目の前の商品棚からモノを振り払った。ガシャガシャと音がして、慌てた男に突き飛ばされ、さらに商品が激しく音を立てて散らばった。アツシに注視していた店員が、こちらの通路が見える位置によって来る。
外へ逃げる男とぶつかってよろけ、向野の足元に転がった。顔を上げて、「あ!」という顔をして、ひっくり返った。スカートを押さえて店員を見ると、顔を赤くしながら後ずさり、外へと逃げた男を追うかのように起き上がって走ろうとし、商品につまずいて転んだ。腰が抜けたとでもいうようにへたり込み、また向野を見た。オドオドとしながら、足元に散らばった商品を、拾い集め距離を詰めてくる。スカートを押さえて震えていると、レジのあたりでアツシが怒鳴る。
「オイ、店員! 煙草くれ!」
集めた商品をまき散らしながら、店員は立ち上がり、ヒクついた顔で向野を何度も振り返りながら、レジに戻った。
通路を移動し、先に店を出ようとすると、先ほどすれ違った浮浪者が、ニタニタしながらガラスに張り付いて笑っていた。
汗が滝のように流れ、胸に入れたパンが強烈に匂った。汗を吸って重くなっているようだ。ぐにゃりと視界が歪んだ。ドクン、ドクンと異常なほど心臓が鳴っている。視界がグラついて、あらゆるものの輪郭が崩れる。大きくなったり、小さくなったりを繰り返し、すべてが襲い掛かってくるように見えた。
吐き気がする。ふらりと歩き出すと、誰かに腕を掴まれた。暴れそうになる。耳にワンワンと形を成さない怒声が聞こえ、汚物を押し付けられるような感覚で辛うじてアツシだとわかる。引き摺られるようにして歩く。すべてのものがぐにゃりと歪み、多重に見えた。
アツシは誰かと喧嘩しながら歩いていた。ふいに何かに足を取られて転んだ。意識が朦朧としている。泥だらけのヒキガエルが太腿を上る。悲鳴を上げて払いのけようとすると、破けたストッキングの穴に舌を突き付けられていた。先ほどガラスに張り付いていた男だ。アツシが蹴とばして払いのけても、路上に転がってけたたましく笑っていた。
我に返ったように、視界と知能が戻った。2~3分後には自分もこうなるかもしれない。縺れる足を必死に動かして部屋へ帰れるよう頑張った。目に映るものを把握できなくなっていた。とにかく、心臓の音が煩い。アパートの階段を上るころ、また視界がぐにゃりと歪んだ。
*
「はぁ…はぁはぁ」
暗闇に落ちて、獣の息遣いを感じた。
部屋に戻ったのだと思った。締め切ったカーテン、暑い部屋。空気が淀んで滞っている。ぐちゃぐちゃと音を立てて胸を揉まれ、黒いブラウスが裂けた。形をなくしたパンが、指の間からはみ出している。黒い虫がワラワラと、指の隙間からあふれ出る。
「っひ……!」
アンパンの餡が虫に見えた。同時に黄色いクリームが指の間を抜け、ドロリと胸を伝って落ちた。不快感が蛇の形を成し、身体を舐めまわす様子が、向野の目に映る。叫んだら噛みつかれそうで、息を止めた。
「はぁはぁ…はぁ、はぁ」
アツシは泥遊びに夢中な子どものように、ドロドロの手で、形の崩れた赤いブラジャーをひたすら揉みしだいていた。耳鳴りだと思っていたのはアツシの笑い声だ。ガラスを削るような笑い声が、部屋を支配しているようだった。アツシはジェルを掴んで、高く掲げ振り絞る。ベッドと言わず、そこら中に液体が降り注ぎ、わずかばかりの冷たさに意識を取り戻すが、それも一瞬のことだった。もはや正気でいることができなかった。
スカートをまくり上げ女性もののパンティを引きちぎると、アツシは意味不明な言葉を上げた。床に転がり暴れまわりながら、「オイ、どこにやった」と何かを探していた。
「……っ…ぅ」
目を開いているはずだが、天井とカーテンが混ざりあい、歪む。何も見えなかった。心臓の音が速く大きく、呼吸が追い付かない。息をいくら吸っても苦しくて破裂しそうだった。アツシが再び身体に跨る。
「叫べよーーっ。さっきみたいに、悲鳴上げろよー」
キャーっていえ、と繰り返しながら、アツシがのけぞりながら嬌声を上げ、向野の頬を叩いた。
「ペット可だから、外には聞こえないってぇぇ。ほらあー。楽しもうぜー」
盆踊りでもしているように、右手、左手とリズムよく左右に伸びる手が視界に映る。鼻から喉をドロリとした液体に塞がれ、窒息しそうになる。咳き込むと、血しぶきがアツシの手に飛んだ。
「クッソ、騙されたわ。ぜってーバットトリップだわ、コレ…」
ふらつきながら、アツシがベッドから再び転がり落ちた。仰向けの身体を捻って、喉に詰まった血を吐き出した。アツシがなにかを手に持って戻ってきた。何か棒状のものを持っている。静かな電子音が響き、アツシが涎を垂らして笑う。イボのような突起がいくつもできた先端が、くねくねと曲がる。目に映るものが大きくなったり小さくなったり、ドクドクと脈打つようで、モノの形が判断できない。身体中が脈打っていて、何も感じなかった。
「これなー、気持ちいーんだってさ。ゴツゴツしてて、俺のより、いーとこ刺激するって」
ビショビショになるんだぜー。もはや人の顔には見えないアツシの絶叫が聞こえた。
電子音が羽虫を想像させ、部屋中を飛び回る様が見えた。正気だったら向野にも、アツシが女と遊んだことは分かったことだろう。
尻を掴まれ、膝立ちになる。スカートをまくり上げて、アツシが尻を固定した。ミシッと中心に激痛が走り一瞬、誰かの顔を思い描き、手を伸ばした。
「……きょ…さ…!」
目尻から涙が零れる。
ザクっと切り付けられ、一瞬で視界が紅く染まる。黒いシミが大きくなるように、死神が形を現した。腸を引っ張り出されるような痛みがあった。
ザクっと音をたてて、死神が鎌を振りあげる。下から刺した釜の切っ先が、腸をぶら下げて腹を突っ切る。
先程のアツシの盆踊りのように、右に左に鎌をふり、ザクッ、ザクッ、ザクッ、肉片と血しぶきが飛び散る。幻覚とは認識できずに、切り刻まれ、死に抱かれて目を閉じた。
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