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31 死の淵 向野

 ゼイ…ゼイ…と鳴る喉の音に目を覚ました。頭痛が激しすぎて、目を開くことができない。部屋は静かだった。相変わらず暑く、全身に汗を搔いている。ヌルヌルと小さな虫が、肌を伝っている。 「…いやっ! やっ…」  暴れて、身体中を手で叩いた。胸を這っていた虫を払い除ける。ボトボトと、シーツに原型をとどめないアンパンやクリームパンが落ち、その感触に悲鳴を上げて壁に張り付いた。肋骨のあたりがまだ黒く見える。払っても払っても落ちない。蹴られてできた痣とは気づかず、叩き続けると激痛に息が詰まった。身体を捩って、呼吸ができない程の痛みに悶えた。ヌルリと太腿が血溜まりに滑り、また悲鳴を上げる。傷つけられた秘部からの出血は止まっていたが、シーツには大きな血だまりができていた。  身体を丸めて、肩を抱いて息をひそめる。泣きたいはずなのに、涙はでなかった。鼻から出血したせいで、息もうまく吸うことができず気を失いかけた。  出血した箇所が痒い。どれくらい時間が経ったかわからない。たまらなくなって動く。肋骨の黒い部分が一歩踏み出す毎に激痛を訴え、息が止まりそうだった。なんとか風呂場にたどり着いた。  シャワーで、浴槽に水を溜めるが、いつまでたってもお湯にはならない。ガスも止まっていたのだが、今、向野の思考は停止していた。水が溜まると、身体にまとわりつくものを払って、浴槽に身体を沈めた。  夏だったことで多少温い水が出て助かったが、浴槽に溜めた水に身体を浸すと、関節がギシギシと震えた。冷たさを訴える反応は、怪我を負った痛みとの区別がつかず救われた気がした。しばらく呻きながら蹲っていたが、やがて震えも収まり、手足を伸ばした。うっすらと目を開けると、下半身から徐々に血が広がって水が濁る。出血は止まっていなかったのだと、ぼんやりと感じた。    ふと目を開けると、すっかり夜になっていた。真っ暗で視界がない。鉄臭いにおいがする。身じろぐと微かに波立つ。風呂に浸かっていたことを思い出し、栓を抜いて水を流す。シャワーを浴びると、ぬるい水は一瞬で冷たい水に変わった。歯をカチカチと鳴らしながら浴び、バスタオルを羽織って、台所を横切った。手探りでコップを探して、水道の水をくむと、足元に何かが触れた。驚いて、手に持っていたコップを落とすと足元に水が広がる。乱れた呼吸音を聞いていると、少し離れたところでぴちゃぴちゃと音がした。彼らの存在を忘れていた。巻き込むわけにはいかない。  何も見えないキッチンで、流し台に手をついて、腰を下ろす。ヌルっと尻のあたりの感触があり、また出血したことを知る。膝をついて奥へ進み、餌袋がある辺りで、手を払った。何かにぶつかって、ザラザラと音がした。転がってきたものを足先でつぶすと、猫のエサの匂いがした。ほっとして、足を伸ばして壁に寄り掛かったまま、目を閉じた。カリカリと、餌を咀嚼する音が聞こえ、涙が出た。    *  腐った肋骨が崩れて床に散らばった。いつかみた絵のように、蛍光塗料でキラキラと光って、砂のように散らばっていく。背筋を支えることができずに、床に突っ伏す形になる。光る砂に手を伸ばすと指に触れる前にそれは蛆虫になり、白い身体をねじりながら、猛スピードで、手や足から上ってくる。 「わっ…ああ、あ!」  振り払ってもそれを押しのけて後から後から、身体中を這いまわる。潰れた蛆虫が羽化して、濡れた羽根でとび回る。目や鼻や口の中、粘膜を狙って飛んでくるのを、必死で振り払った。  暴れまわって、床にしたたかに肘を打った。おかげで目覚めて、トイレへ走って吐いた。吐くものなどないのに酸っぱいものが、絶えず上がってきた。  体力を奪われて、フラフラになりながら水道の水を飲んだ。そのまま力尽きて、床に座り込む。生命力のあるものが、死臭を避けるように、そっと立ち上がって遠のいていった。  吐き気を覚えてまたトイレに向かった。時間をかけて台所に戻ると、ぼんやり朝の気配に包まれていた。水たまりの横で、太夫が丸まって眠っていた。壊れたパイプ椅子の上で、ヒカルは膨れた腹を伸ばして眠っている。  立ち上がって部屋に戻ると、異様な臭いがした。カーテンを開けると早朝の明かりで多少、部屋の中が見えた。ノートパソコンがない。床に散乱しているものをひとつひとつ掴んでみるが、途中で何をしているのかわからなくなり、しばし停止する。そしてまた、手に掴み、これではないと思う。少し動くだけで、全身に汗を搔いた。頭から腕から、スポンジを押したように、玉の汗が出る。少し休んでまた意識が戻ると、部屋を動きまわったが、結局、財布もスマホも見当たらなかった。  怪我もあって、服を着るにもかなりの時間が必要だった。ぐっしょりと汗を吸って、黒いTシャツが弛んだ。こういう恰好でよかったのか、何度も何度も、全身を確認したが判断はできなかった。靴を履いたが、外へ出ると笑われそうで、なかなかドアを開けることができなかった。  だが、行かなければいけない。あの場所へ……。  どれだけそうしていたのかわからない。はっと意識が戻って、ドアを掴んで座り込んでいたことに気付く。幻覚と夢想と現実と。判断ができなくなっている。  どこへ行こうというのか。  誰に会いに行こうとしたのか。  その場で正座したまま目を閉じた。何度も何度も呼んだ人の名前を、忘れるはずがない。 「はぁ…はぁ…はぁ」  音を立てなければ、規則的な呼吸ができなくなっていた。暑さで頭がフラフラする。暗闇に鋭利なものでひっかくようなエッジが見え、指の形になった。指先がキラキラと光って見える。ドアの向こうを差している。 「行かなくちゃ…」  見えないものに引きずられて身体を起こすと、ドアを開いて歩き出した。  駅へ続く道を、塀や電信柱を頼りに、手をつきながら歩を進めた。同じ方向を行く人ばかりで、誰も目を向けないことに、ホッとしていた。重い脚を引き摺るようにして歩いているから、実際は下ばかりを見ていて人の目が、気にならなかっただけだが。追い越す人は向野をちらりとみて、距離を取るか、心配に思いながらも、何度も振り返っては行く道を急いだ。  改札を通り抜けようとして、扉が閉まって転んだ。なかなか立ち上がれずに駅員が寄ってきて、何事か話かけてきた。理解はできなかったが、身体中を摩って、ジーンズの後ろポケットに手がいって出てきたものを差し出した。定期入れだ。駅員がそれを改札にタッチすると扉が開いて、通ることができた。元あった場所に定期入れを入れると、惰性に任せて足の向く方へと進んだ。  電車は満員だった。目を閉じても、身体を支えていなくても、電車の中に入れば自然に身体は他人に支えられる。考える間もなく、皆が降りる新宿駅で波に乗るようにホームへ流れ出た。そのまま向かいの電車へ流されると、反対側の扉側に立って柱に掴まった。  渋谷に着くと駅のホームに押し流された。殺気立った人に押され、壁にぶつかった。 「チッ」 舌打ちが聞こえて顔を上げる。人、人、人。邪魔だというように視線を向けられ、頭を抱えて座り込んだ。怖い。怖い。怖い…。 「大丈夫ですか?」  女性の声が聞こえて、慌てて立ち上がる。ふらついて、頭を壁にぶつけたが、人と目が合うのが怖かった。腕に触れた人の手を払って歩きだした。  改札で同じことを繰り返して、なんとか通り抜けると右側に、覚えのある通路が見た。窓から光が差している。嬉しくて涙が零れた。

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