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32 死臭 三枝
*
向野のことが心配で、今日は早めに家を出た。
いつもはそれほど気にしないスマホを常に持ち歩き、チラチラと画面を見ながら過ごしていた。
こんなことなら、一緒に行けばよかったのだ。彼氏とやらが現れるまで、身を隠して、会話ができるかどうか確認するくらいはできたはずだ。そっと後をつけて部屋を確認し、彼が暴力を振るわないか、部屋の外で耳を澄ますこともできたのではないか。いろいろ考えて不安が増した。連絡がないことは、何もないのだろうと思いながらも、連絡できない状況だったらどうするのか、考えるだけでソワソワした。
『シェアリ』に着くと、店員が通路沿いのガラス窓を拭いていた。まだ開店準備中のようだ。少し進んで立ち止まると、奥から馴染みの受付嬢が出てきた。
挨拶をしようとすると、何か不安そうに眉を寄せて走ってくるのが見えた。
「あの……」
彼女は近寄ってきて、言い淀むが、意を決したようにしゃべりだした。
「ホントはこんなこといっちゃ、モラル上どうなのかって思うんですけど。…あの、私、エレベータに乗る時、向かいのエレベータに乗る向野様、見たんです」
「え?」
思わず辺りを見回した。このフロアは『シェアリ』が片面にあり、H型をした真ん中がエレベータホール、反対側は痩身サロンになっていて、そちらはまだ開店準備も始まっていないようで、フロア自体の電気が落ちている。
「誰かに支えられているように見えて、てっきり三枝様かと思ったんですけど、…思い出すと、身長が違うかなとか、腕が太かったかなとか、けむくじゃら…だったような……。そういうこと…その…」
店員として口にすることは憚れるだろうが、彼女は彼女なりに不安を感じたのだろう。細かく見たことを伝える必要があると判断したのだ。
「ありがとう。聞かなかったことにするよ」
そういって走り出した。痩身サロン側にトイレがある。走っていって中を確かめた。個室をひとつひとつ、覗いてみる。女性側も入ってみた。幸い誰も使っておらず、奥からひとつひとつ確認して外へ出る。
廊下の突き当りの扉を開いて非常階段を降りた。下の階は、ネイルサロンと英会話教室が入っているフロアで、こちらもまだ人気はなく、店舗入口にほのかな照明があるだけだ。
苛立って、バンと壁を叩いて、男子トイレに入った。
すると奥の個室から物音がした。入口で立ち止まって息を飲む。水が流れる音がして、ドアが乱暴に開いた。
ベルトを閉めながら、小太りの男が出てきた。成金ずんぐりだった。
趣味の悪いアロハを着ている。汗だくになりながら、ちらりと顔をあげて、三枝の顔をみて驚いたように一瞬立ち止まり、逃げ場所を探すようにチラチラと周りを見た。直感して動けなくなった。成金ずんぐりが突進してきたが、三枝がよけると壁に頭をぶつけて床に転がった。
「…おい」
声を掛けようとすると、成金ずんぐりは悲鳴を上げて立ち上がり、転がるように走って逃げてしまった。追うつもりもない三枝は、奥へと身体を向ける。奥の個室には、まだ人の気配があった。
長い時間に感じたが、2~3秒後にえずくような声が聞こえ、水音が流れた。バンっと音がして、壁に掴まるように細い腕が伸び、黒い姿態がくるりと通路へ出た。ふらりと揺れて前屈みに動き出すと、肩をぶつけながらゆっくり前進してきた。
ドロンと濁った眼、病人のようにげっそりした頬で、口の端が切れ、血が滲んていた。
「…次はアンタ?」と呟いた。
知っている姿ではない。枝のような細い腕を伸ばして、洗面台に掴まると、身体を引き寄せるようにして立ち、蛇口から水を受けて顔に掛けた。
「…向野、くん…?」
聞こえなかったかのように、彼は乱暴に、水を掬って顔にかける。所かまわず水が飛び散った。
「向野くん」
一瞬、動きが止まり、両手を洗面台の淵で支えると鏡の中から、目が動ごき、視線が合った。その瞬間、向野は膝から力が抜けるようにガクンと崩れた。怪我をする、思わず手を差し伸べたが、座り込むほうが早かった。必死に洗面台にしがみ付いている手に触れようとすると、悲鳴が上がった。
「あ、ああーっ!」
固まってしまった手を洗面の淵からほぐして外す。悲鳴を上げ続ける向野の身体をこちらに向かせ、頭を胸に押し付けた。
「ああーーっ、あっ、あ…」
「向野くん、落ち着いて」
頭を撫で、耳元で聞こえるように囁き続けたが、届く様子はない。ぐっと堪えても、目が熱くなった。
警備員が駆けつけた。
「ど、どうしました?」
歯ぎしりをしながら訴える。
「…乱暴された、ようです」
「きゅ、救急車を…」
腕の中で、向野の身体からガクンと力が抜けるのがわかった。冷静になった。
「私の車で運んだ方が早い。誘導してもらえますか?」
ジャケットを脱ぎ、向野の顔が隠れるくらい上に掛けると、抱き上げて立ち上がる。警備員はオロオロしながら先を行き、非常階段の扉を開けてくれた。
車の後部座席に向野を下す。そっと下したつもりだが、ビクンと身体が跳ねて向野がまた悲鳴を上げた。
身体をシートに押入れて、ドアを閉めると抱き締めて、悲鳴が止むのを待った。
「大丈夫。僕がいるよ、君のそばにいるよ」
ぎゅっと胸のあたりで服を握ったまま、震えている向野をずっと撫でていた。エンジンをかけていない車の中は暑く、一瞬で汗だくになった。血の匂いが充満している。何度も呼びながら、頭を撫で、いつものように頬やおでこにキスをした。汚れも気にはならなかった。
叫び疲れて呼吸が小さくなる。だが、全身は小刻みに震えたままだ。
「……ぅ、さ…。…京…さん」
「ここにいるよ」
「よか…っ。ちゃ…」
良かった。ちゃんと会えた。そう聞こえた。奥歯がガリっと音を立てた。
「もう大丈夫だよ」
そういうと、シャツを掴んでいた手から力が抜ける。
「もう一人にしないよ」
そういうと、眠りにつくように、ガクンと首が折れたが、「あ…」と声が上がった。
「猫が…」
まず病院へという三枝に首を振り、向野がまた悲鳴のような声で、「猫が」と訴えた。猫を飼っていると聞いた。三枝は向野の身体を心配しながらも、運転席に移動した。
「猫…」と呟きながら、涙を流す向野はもはやトランス状態だ。怪我をしているに違いない向野を病院へ送り届けるという手もあるが、こんな錯乱状態のまま離れることもできないかもしれない。三枝は高円寺へと車を走らせた。
向野に誘導され、古いアパートの目の前で車を停めた。向野がよろけながら先を急ぐ。二階の奥の部屋の鍵を開け、向野が先に入った。ドアを大きく開くと異臭が放たれた。玄関の横にあるキッチンは水浸しで、食器や猫のエサらしきものが散らばっていた。洗面所の扉や、下駄箱が開かれ、モノが間引きされているように、ぽっかり空いた箇所と、その周辺から落ちたらしいものが散乱している。奥に見える部屋の引き出しやクローゼットも、同じように空き巣に荒らされたような散らかりようだ。靴を脱いで上がると、靴下に水が染み込んだ。
脱衣所に血に染まったようなバスタオルと、赤い、ブラジャーらしきものが見えた。
奥の部屋に進み、口元を押さえた。
ベッドに広がる血と汚物。壁や天井に何かをまき散らしたような黄ばみがあった。部屋は酷い荒れ様だった。デスクに白い紙が見えた。
「別れよう ヒカル は もらった」
筆圧のない歪んだ文字は、そう読めた。思わず丸めてポケットにしまう。
窓際に蹲っている向野を見つけて駆け寄った。
「…ゆ…う…。太夫…」
白い塊を手でそっとゆすっていた。慌てて手を伸ばす。そっと撫でると顔らしきものがカクリとこちらを向いた。まだ温かい。
「向野くん。動物病院は近くにある?」
涙を流したままの向野が動かない。
「向野くん!」
ハッとなって、ノロノロと立ち上がる。そこらに散らばった服で、やわらかそうなものを掴むと猫をそれでくるんで立ち上がった。
「間に合いませんでした」
医者にそう言われて、奥の通路の椅子に腰を下ろした。窒息死だった。吐いたものに喉を詰まらせたのではないかという。状況からみても、かなり痩せているので、以前からストレスなどで食事もできなくなっていたのだろうと、言った。太夫を抱えたまま泣き続けている彼に、掛けてあげる言葉が見つからなかった。受付の方から顔を出している女性に気付き、音を立てないように傍を離れる。
「ご家族の方ですか?」
「…いえ、付き添いです」
一番親しい者のはずなのに、それを伝えるべき言葉はなかった。彼女はわざと事務的になるようにちらしを渡してきた。
「夏ですから、お早目に決断された方が…」
言われて、ちらしに書かれている文字を把握した。ペットの葬儀場はいまやこんなにもあるのかと驚いた。納骨のみのところもあれば葬儀をするところや、墓地にも種類があるなど、様々だった。向野には決められないだろうと思い、今日これから、一つの命として見送ってくれそうなところに電話を入れた。
ペットの葬儀社は、それとは分からないような白いバンで来た。近くの駐車場で骨を焼いてくれるという。気にする人が多いというので、葬儀とは知られないようにするのだという。車でついて行って待機した。一時間ほどでバンに近付くと、骨壺を開けて見せてくれた。
「これが…太夫?」
向野の目からまた涙が落ち、その場に蹲った。
「ひとつ、貰えませんか?」
そう申し出ると葬儀の人は、骨壺を覗き込んで箸でつまみ、懐から出した懐紙に載せて向野に見せた。
「爪です」
丁寧に畳んで、後部座席にあった白い紙で昔の手紙のように包んで渡してくれた。
「では。これから太夫さんは寂しくないように、同じ猫さんたちのお墓に入りますまで、私が責任を持って執行させていただきます」
優しい声だと思った。先に向野を車に帰して、お金を払った。
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