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33 片付け 三枝

 夕方になっていた。アポなしで内科クリニックの医師をしている友人・清原を訪ねる。抱きかかえた向野をみて、診察室へ案内してくれた。  診察中は追い出され、廊下で待つことになった。なにも考えることができないとはこのことか、ただ時間が過ぎるのを待っていた。  暫くして清原が出てきた。 「肋骨が2本折れている。胃がかなり荒れている。それと…、体液は検出されなかったが、直腸が酷く損傷している」  ベッドの血だまりを思い出した。成金ずんぐりにトイレに連れ込まれる前に、あの部屋で傷つけられたということだ。ぐっと拳を握る以外、なにもできない自分が情けなかった。咽喉も荒れているので、おそらく食事もできない。入院をしたほうがいいだろうと言われた。 「興奮気味だったので麻酔を強くした。今は点滴で眠っている。明日まで起きないだろうな」  白衣をまくって煙草を出すと、清原は庭へ出た。窓を開けて顔を出す。 「少し様子がおかしかったな。ずっと叫んだり、自分を認識できないみたいで、時々、正気になるというか…」  清原の言葉が止まったので、そちらに目を向けると盛大に白い煙を吐きながら続けた。 「クスリ、盛られたかもな…」  再びタバコを加えながら、清原は視線を合わせないように呟いた。紫煙は夜空に浮いた月をボヤけさせた。窓に肘をついて、両手を握り締めた。額をそっと押し付けても生まれ出る怒りを抑えることができなかった。 「…殺してやりたい」  明日まで起きないと言われたので、車で向野の部屋へ戻った。部屋に入ったが、電気はつかない。ベッドの布団をまず畳んで、窓を開けた。横の電柱から漏れる電気で、部屋に散らかったものを片づける。衣類やタオルをクローゼットに積み、ゴミらしきものや壊れたものはゴミ袋に入れた。部屋の床が見えるようになったが、スマホもノートパソコンも見つからなかった。テレビやDVDデッキがあったらしいところがぽかりと空いている。台所から下駄箱にいたるまで、金目のものを持ち去れたように見える。乱暴したうえで強奪? どちらの所有物かはわからないが、向野のものまで同じ目的で持ち去ったのだろうと思うと、腹立たしさより気分が悪くなった。  あれほど人を傷つけて、窃盗まがいのことをして、元気な方の猫を連れて行く。正気の沙汰とは思えない。最低だ。そんな奴の元へ、帰してしまった自分は、そいつ以上に最低だ。  小さな虫が顔を目掛けて飛んできた。思わず払う。作業が進んでないことに、我に返った。一旦家に帰って、掃除道具を持って、明日明るいうちに来るしかない。建物の入り口に不動産屋の看板があった。階段に座って電話番号を登録していると、その不動産屋のロゴをつけた車が敷地の前で止まった。生真面目そうな中年の男が降りてきた。  男に名刺を出して、向野を保護したことを伝える。 「病院、ああ…なんてことだ」  不動産屋は自分の名刺を出しながら呟くと、向野を気遣ってくれた。 「実は、昨日今日と定休日でして、残務処理でつい先ほど、社へ行ったらこの物件の方から複数の留守電が入ってまして…」  人の耳を意識して、不動産屋の車の中に移動した。  最初はクレームだったという。昨日の朝方、騒音が酷い、叫び声がすると。そして昨夜、人の気配がするのに、電気もつかない、悲鳴が聞こえるから不安だという電話が何件か入っていた。今日になって、異臭がするという一件があって、警察に知らされる前に慌てて見に来たのだという。大概そういう不安はすぐ110番すると思っていたが、この不動産屋はそういったクレームを片づけてくれる良心的な業者なのだろう。  警察と言う手もあった。あの惨状をたった今、片づけてしまったことを一瞬失敗かと思ったが、被害者となる向野を警察や人目に曝したくなかった。最早、犯罪者である同居人の彼氏を、裁いて罰してもらうには、警察に突き出した方がいいのだが。――これ以上、向野に負担を掛けたくなかった。 「喧嘩です。同居人と揉めたそうです」  嘘をつくのは忍びなかったが、納得されそうなことを思いつかなかった。ああ、そうなのですねと、不動産屋は平たい返事を返した。 「向野さんいい店子だったんですけどね。ここ、6年もお借り頂いていて一度も、家賃延滞はなかったんですけど、ここ3ヶ月払われてなくて…」  そんなことをする人間ではない。噛みつくように顔を上げると、察したように手で抑制された。 「まぁ、うちの物件は同居人については、名前と職場を契約時に確認するくらいで、あとの調査はないんですよ。ただ管理はしてますから、共有スペースの掃除やら電球交換でこちらへ来ると、同居人様とも顔を合わせることもありますからね…」  同居人について、よくは思ってなかったということを濁す。 「それで、えー…」  明日でちょうど契約が終わるのだという。出ていくとも更新するとも連絡はないが、連絡があるまで、ある程度のパーセンテージを狙って催促はしていなかったらしいが、どうするのかと不動産屋が口を窄めた。  握り潰したメモを思い出しながら聞いてみた。 「契約者本人からしか、解約はできないんですか?」 「いえ、向野様は保証人が確かお父様ですので、事情をこちらから話して退去という形に致しましょうか」  それがいいと納得した。部屋は明日自分が片づけて引き渡すというと、立ち合い時間を約束して別れた。  *  翌日朝7時、クリニックの裏口でチャイムを鳴らした。目をくしゃくしゃにしながら友人が顔を出す。「早ぇよ」と文句を言いながら、スリッパを出してくれた。ついて歩きながら、 「徐脈がみられる。悪い夢でもみてるかもしれないけど、暴れることはなかったよ」  首を掻きながら先を行く。部屋の前でマスクを渡され黙ってつけた。アルコール消毒をして中へ入る。医者は入ってこなかった。  カーテン越しに日差しを感じるが、眩しいほどではない。脈や呼吸を計る大きな機器と点滴、酸素を繋ぐカニューレで繋がれた小さな身体を見ると悲しくなった。横に立って、そっと頬を撫でる。髪を撫でても、長い睫毛は動かない。  指が震え、撫でてやることができなくなった。ぐっと拳を握った。  後悔してもしきれない。自分の判断が甘かった。彼を傷つけたのは自分だ。顔も見れずにすぐ立ち上がると、部屋を出た。  中庭で煙草を咥えている清原を見つけ、窓を開けた。  定期入れを渡された。 「服はハサミできっちゃったけど、残しておきたいものある?」  と聞かれ、処分してもらうようお願いした。思い出して、 「これ、何かわかるか?」  昨日、ゴミとして持ち帰ったゴミ袋から、小さなしわくちゃのOPP袋を見つけた。ピンク色の錠剤でも入っていたのか、わずかな粉が残っていた。  清原は、親指と人差し指で隅っこを掴むと、陽に透かすように中身を見上げた。 「警察に出せばわかるんじゃない? うち科捜研じゃないから、見た目以上のことはわからんよ」  がっかりした。 「警察に届けを出すなら診断書にくっつけといてやるぞ」  三本指を立て、親指と人差し指で作った丸を強調した。金を要求するらしいポーズだが、医者として黙っていてほしいと願うことにリスクがあることは、十分なほど理解をしている。 「被害届は出さない」 「…懸命だ」  清原は低く吐き捨てると煙で輪っかを描き、パケを丸めてポケットにしまった。 「一応医者だ。薬や大麻の入手元によって、想像できる症状は多少わかる。そんなもの持ち込んだ奴は、さっさと牢屋にぶち込んだほうがいいと思うが…」  永遠に、隔離してもらえるならそうしてほしい。 「残念ながら、再犯率の高いこの国では、報復の方が怖い。こんなもの残して逃げ去るアホは末端だ。売人や元締めにたどり着かない可能性が高いなら、無茶な正義感で突っ走らないほうが賢明だ」  素人がヘタに手を出すなと、けん制された。吐き出される煙を眺めた。煙のように、無にならないといけない。空に吸い込まれて消えるまで眺めて窓から離れた。 「あとは頼む」  「夕方まで来るなよー」軽い口調で送り出された。  部屋に掃除道具を持ち込んで、黙々と片づけを行なった。昨日、部屋の方は、一通りゴミらしいものは片づけたが、台所にまき散らされた猫のエサ以外にも異臭を放つものが方々にあった。割れた食器や調理器具をまとめる。  風呂場の前のバスタオルは血を吸って変色している。一緒にあるのは、やはりブラジャーだ。すでに黴が大繁殖しているが、どうしてこうなっているのか見当もつかない。というより考えたくもなかった。新聞紙に包んでゴミ袋へ入れた。  バケツに水を汲もうと、風呂場の扉を開けて固まった。殺人現場のようだった。バスタブには、湯を張ったラインに赤黒い血の名残りがあり、したたり落ちる形でこびり付いていた。床にも血の痕跡が点在していた。風呂洗剤では落ちず、漂白剤や食器洗剤などで何度もゴシゴシと擦って落とした。  今日中に粗大ゴミを持って行ってくれる業者を、昨日のうちに探し、目星をつけていた。 少々料金が割高だったが、すべてまとめて持っていくことを条件に一業者に依頼した。同居人が金目のものと私物は持ち去ったせいで、荷物はほとんどなかった。服や食器も少ない。  ここで生活していたことを、思い出すようなものを持ち帰りたくなかったため、それらも処分対象とした。なにより、アルバムや子どもの頃から持っていそうな小物、思い出の品と呼ばれそうな写真なども、一つも見つからなかったので、自分の判断は正しいと思った。  クローゼットの奥に、ボロボロの古い鞄がひとつあった。中を確認すると、WEB関連の参考書らしきものが入っている。刷新された同じ著者の同じ内容のものまであって、ファンでもない限り、取っておく必要もないものに思われた。パラパラとめくると、古い方の参考書は、真ん中をくりぬいてあり、向野名義の預金通帳と印鑑が収まっていた。鞄の底敷きをめくると給与明細と納税証書などが出てきた。成程、参考書はカモフラージュで、普段から隠しておきたいものをここに入れたのだと納得した。持ち帰るのはこれだけのようだ。  散らばった猫のエサを掃除機で吸い取り、床を入念に拭いた。昼過ぎに業者が来て荷物を運びだした。血だまりの布団は、決して開かれないよう厳重にヒモで縛り、冬物の毛布などでさらに二重に縛った。ベッドを運びだしたあと、黒い塊を見つけた。猫のエサかと思ったが、血で固まった向野のピアスだった。耐え切れず、膝をついて泣いた。      *  不動産屋の立ち合いの時間まで、まだ少し時間があった。スマホでリサイクルショップを探して、近くの店を回った。ノートパソコンやスマホが見つからないかと期待したが、空振りに終わった。  空腹感はなかったが、駅前をうろついていたらベーグル屋を見つけ、ひとつ買って近くの公園で食べた。向野の、猫に踏まれて割れたスマホ画面を思い出して、涙が出そうになった。  ふと思い出して、受け取った向野の定期入れを探った。中に名刺がいくつか入っていた。向野の名刺が数枚でてきた。住所をみると渋谷区だ。スマホで調べると恵比寿駅の近くだった。  向野の現在の会社の名刺に違いない。電話をする。 「突然申し訳ございません。向野くんの代理のものです」  と言うと、「え? 社長!」と、電話を受けた女性が大声を上げた。ざわつく様子が見えるようだ。そういえば、無断欠勤をしてしまったと言っていた。そのせいかと思った。 「お電話変わりました。代表の内村です。向野くんは無事ですか?」  無事ですか? 何か情報を持っているような口ぶりに思われた。 「いえ…。しばらく安静にということで、入院しています」  と言うと、「え?」と聞き返し、内村と名乗った男が動揺した。 「え? にゅ、入院って、な、なにがあったんですか?」  まだ、若い人だっただろうか。内村の後ろから女性の声が聞こえる。「社長、落ち着いてください」と。 「ちょっと事件に遭いまして、かなりの怪我をしました。身体的な怪我は一ヶ月もゆっくりしていれば完治するかもしれませんが、精神的にダメージを受けておりまして、復帰の目途は今現在たてられないので、ひとまず本人に代わって連絡させていただきました」 「そ、そんな…可哀そうに…」  内村は素直な感想をこぼして黙り込んでしまった。ビジネス対応を忘れてしまう、人の善さを感じた。 「…あ、イテ。あ、それでですね、先ほど、リサイクルショップから連絡がありまして…」  内村によると新宿区内のリサイクルショップに、家電製品と一緒にノートパソコンが持ち込まれたようだ。店員が開いてみると、作業途中だったのか、パソコン画面がそのまま開き、リストアされてないことを不審に思ったそうだ。個人情報を積んだままのパソコンを、リサイクルショップに持ち込む人は滅多にいない。完全に消すことはできなくても、少なくともデスクトップはまっさらだったりするものだが、持ち込まれたものはびっしりと、業務用らしきファイルがあったそうだ。疑いを向けると、それを持ち込んだ金髪の男は、他の商品を持って逃げていったそうだ。  店員はパソコンのIDを調べ、登録の電話に連絡をしたが繋がらず、ちょうど来たチャットメッセに呼びかけ、会社の人間と連絡が取れたそうだ。 「なので、泥棒にでも入られたのかと思って、連絡をしていたのですが、スマホは繋がらなくって…」  まあ、泥棒されたのも事実だ。スマホも盗まれたらしいと伝える。 「えー。可哀そうに…。彼は、お守りをとても大切にしてたのに…」  内村の相手をするのが辛くなった。お守り――。  『俺のは、スマホの中。誰にも、見られないように隠してある』  向野のお守り。大切にしていたものを持ち去れたのかと思うと「可哀そうに…」という言葉が重かった。スマホを持つ手が重くて膝に落とした。生温い風が舞い上がって、公園の砂が目に入った。あの亀裂の入ったスマホを見つけたこと、何かをなぞるように動いた向野の指先を思い出し、滲む視界の中で思い出していた。 「…あ、イテテ。あ、あの」  声が聞こえて慌てて耳に戻す。 「あの…、一応、向野君は試用期間なので、正式ではないんですが、その…えっと、元気になって、まだ働きたいと思うなら、いつになってもいいので、連絡してくれるように伝えて貰えますか? あの、えっと、体調をみながら、ぼくらの方でもフォローアップできるよう体制を作りますから、えっと、ど、どうか検討してほしいですっ」  子どものように言い切って、イテと内村が言った。後ろから、高岡のような女性に小突かれているところを想像して、温かい気持ちでお礼を言い、伝えますと言って電話を切った。  不動産屋が部屋を確認する。汚れた壁や天井は諦めたので、そのままだ。穴の開いたクローゼットのドア、猫の齧ったガラス戸や爪を研いだ柱もあるので、殆ど敷金は返らないでしょうと言った。 「そうそう。お父様に連絡をしたところ、北欧の奥地に居るので、いつ帰れるかわからないと言われました」  しょんぼりと不動産屋が言う。放浪癖があると言っていたが、そんな遠くまで行くのか。連絡がつくだけマシかと思いながら頷く。 「金銭面はお父様が帰ってきて処理していただけるそうですが、その、あなたのことは聞いたことがないとのことで…」  ほったらかしておいて何を言うかと、少し苛立ちながら答えた。 「暫く、向野くんを預かりますので、もし必要でしたらそちらに僕の名刺を渡してくれて構いません」 「…念のため、ご実家の連絡先などもぉ…」  フリーランスであることは社会の信用が薄い。ぬかりない不動産屋に感心しながら、書類に住所を書いた。

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